【インタビュー】株式会社ゴルフダイジェスト/酒井敦史氏 - CFOはブレーキではなく、アクセルを踏み込むことも大切だ(1/2ページ)
設立後わずか4年で東証マザーズ上場を果たして以来、着実に業容を拡大し続けている株式会社ゴルフダイジェスト・オンライン。
世界No.1のゴルフ総合サービス企業へ向けて、東証一部への上場を果たす今、CFOとして同社の中枢を牽引する酒井敦史氏のキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
酒井さんのキャリアインタビューは、お聞きしたいという方も多かったので、とても楽しみに参りました。
とても恐縮してしまいますが、ありがたいお話ですね。
酒井さんといえば、お仕事柄ゴルフというイメージが強いのですが、幼い頃からゴルフをやられていたというわけではないですよね?
そうですね。学生時代はサッカーをやっていました。
ご出身はどちらなのですか?
生まれは茨城です。鹿島アントラーズのホームタウンですね。海まで自転車で20分くらいのところです。 言ってしまえば、だいぶ田舎で育ったということですね(笑)。
株式会社ゴルフダイジェスト・オンライン CFO 酒井敦史氏
どんな少年だったのでしょう。
6歳上の兄がいるんですが、幼い頃からよく兄の友達とも遊んでいたので、だいぶ鍛えられていましたね(笑)。 周りに特に何かあるというわけではないので、本当に自然の中で、のびのび遊んで、体を動かして…、というような幼少期だったと思います。
そうでしたか。とても自由な環境で育ったのですね。
はい、基本的に何でも自分でするように育てられましたね。 兄は私立の学校に進んだために、中学から家を離れて下宿していたんですが、逆に僕は運動に一生懸命になりまして(笑)。
小さい時からサッカーをやられていたのですか?
そうですね。鹿島アントラーズはまだありませんでしたが、もともとサッカーが盛んな地域でもあったんですよ。 でも田舎の小学生なので、サッカーだけでなく、野球であったり、ソフトボールであったりと、とにかく体を動かすしかないので、いろいろなことをやっていました。 当時はミニバスケットっていうのもやっていて、上級生に交じってプレーしていましたね。
だいぶ活発な少年ですね!
両親が共働きで帰ってくるのも遅かったので、基本的には家にも寄り付かず、一日中遊びまわっていました(笑)。 自分で言うのも何ですけれど、運動神経は結構良かったんですよ。 兄とその仲間達に鍛えられたおかげで(笑)。
中学時代からは本格的に部活という流れですか。
株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
そうですね。中学からはサッカー部員として汗を流していました。本当に毎日サッカーばかりをやってましたよ。 朝5時に家を出て、20分くらいかけて自転車で学校まで行って、朝練をしてから授業を受けて、放課後はまた遅くまで練習して…というような。 毎日毎日そんな感じでした。
まさにサッカー漬けの毎日ですね。
本当にそうでした。それこそ雨の日も風の日も嵐の日も…というような状況です。 でも少し変わっていたのが、陸上の大会がある時は、サッカー部を一時休みにさせて、強制的に陸上競技に出されるんですよ。サッカー部の顧問が陸上出身ということもあったんですが、当時はいろいろな部活から選抜でメンバーを集めて、大会に出るというような。
陸上部はなかったのですか?
そうなんですよ。サッカーは部活なんですけど、陸上は毎回有志で集まっていて。その時期になると「今はサッカーはいいから、とりあえず陸上やれ!」というように。完全に強制的だったので、本当はサッカーをやりたくても陸上を頑張らなければならなかったんですよ。 強制的といえども、200メートルとか400メートルとか、正式な大会にエントリーされていたので、今思うと本当に良くやっていたなと思いますよね(笑)。
まさにスポーツ一色ですね。
そうですね。3年生の秋まではずっと部活動一色でした。
高校進学に向けての受験勉強も大変だったのでは?
受験勉強はほとんどしなかったですね。でも成績は人並みに良かったんですよ(笑)。 一応、地元の進学校に入学できましたし。
高校時代は何かされていたのですか?
中学時代が本当に体を動かすことしかしていなかったので、高校時代は少し落ち着いてしまいいましたね。 もちろん運動は好きだったので、友達同士でサッカーをやったりラグビーをやったりしていましたけど、特に部活に入りませんでした。 普通に楽しく、平穏に高校3年間を送ったなという印象ですね。
地元の高校ということは、卒業後の進路も皆さん分かれますよね。
そうですね。まず都内に出てくるという人は圧倒的に少なかったと思います。1割くらいですかね。 僕の通っていた高校も、成績上位の人は半数以上が地元の有力大学に進んで、その残りが東京に出てくる…というような雰囲気でした。
高校卒業後すぐに働く方も多かったですか?
そうですね、結構いました。2年生になると就職クラスというのが1~2クラスできて、そのクラスの人達はだいたい卒業後すぐに働いていました。 残り5~6クラスが進学クラスで、国公立向けのクラスと私立向けのクラスに分かれて、私立はさらに理系向けと文系向けに分かれていました。
酒井さんの選択はどうだったのですか?
僕は文系でしたね。特に何か大きな理由があったというわけではないんですが。
大学受験に向けてはどうでしたか?
あまり受験勉強をしていなかったんですよ。今振り返るとほとんどやっていなかったですね。 結果論として、一応現役で受かったんですよ。でも、学校は行かなかったんです…(笑)。
どういうことですか?
実は当時、放送作家とか脚本書いたりとか、そういう仕事をしたいなと思っていて、志望していた大学に受かったんですよ。しかも、異常な倍率だった放送学科に奇跡的に受かって。 でも、実際に大学の雰囲気や学生を見て何となく雰囲気が違うなと思っちゃったんですよね。
すごい話ですね。
恥ずかしながら、だいぶ天狗になっていたという面もあると思うんですよね。あまり勉強もせずに志望校に受かったという…。
それにしても、そのまま大学に進まれていたら、全く異なる道を歩んでいたということですね。
そうですね(笑)。どこかのテレビ局のADとかになっていたかもしれないですね。
では、そこからもう一度勉強をし直してということですよね? 浪人生活は結構苦しかったですか?
それが、そうでもないんですよ。性格がポジティブなんでしょうね。あまり自分を卑下することもなく、その時々を生きていた感じです。
本を読むのが好きだったので、よく代々木公園までバイクを走らせて、寝ながらずっと本を読んでいたりしていましたね。真っ黒に日焼けして(笑)。
それもそれで良い期間だったということですね。 大学に入られてからは、生活も変わりましたでしょうか?
大学もまただいぶ楽しんでいました(笑)。サークルがメインで。
僕らの世代は多かったと思いますが、飲み会の多いサークルで、長い休みに入ると(合宿と称して)軽井沢とかでテニスをやったり。
いろいろなところにも行きましたね。パラグライダーをやったり、カヌーをやったり、海にもぐったり。冬はずっとスキーですし。平日ずっと山に行って、週末しか東京に帰ってこなかったとか。
充実していますね(笑)。
アルバイトでお金をためて、たまに海外旅行もしたり、だいぶアクティブに動いていたと思います(笑)。
4年間ずっとですか?
いや、さすがに3年生の頃からは、このままではいけないなと思って、会計の専門学校に通い始めました。
その流れで管理系のお仕事に進まれることになるのですね。
そうですね。大学時代にはバブルがはじけていて、就職活動は厳しい時代でもあったのですが、どうせ仕事をするなら、管理系の仕事というか、経営に直結するような仕事をしたいなと。生意気ですけどね(笑)。
就職活動では、管理系業務の募集をしている企業に絞って動かれていたのですか?
まさにそうですね。経理などの募集を出している企業を優先的に志望していました。
業界も絞られていたのでしょうか?
ITですね。ITに絞っていました。ちょうどこれからITの時代だという風潮があったので。
管理系・ITという軸で就職活動をしていて、いくつかIT系の商社から内定をもらい、その中から前職に決めたという流れですね。
人事がとても懸命に話をしてくれて、印象が良かったんですよ。
そうでしたか。入社後は志望通り経理部門の配属だったということですよね。
そうです。経理で6~7人、財務で4~5人という組織で、そこからのスタートでした。
ずっと経理畑だったのですか?
いや、経理の他に、審査とか法務とか、管理系を幅広く経験させていただきました。
経営管理・経営企画のような立場で上場準備にも携わっていましたし。
上場準備をされていたんですよね。
そうですね。大きなミッションの一つにIPOがありました。