【インタビュー】株式会社アイスタイル/菅原敬氏 - 創業者経営からチーム経営へ。事業創造型CFOとして意識してきたこと(1/2ページ)
創業支援から携わり、子会社2社の代表取締役社長を経てCFOへ。現在CVCの代表も務める、株式会社アイスタイル・菅原敬氏。そのキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
菅原さん、今日はスーツですね。
そうですね。たまたま今日は銀行さんとの会食があるので(笑)。大丈夫ですかね?(笑) カチッとしすぎてますか?(笑)
とんでもないです(笑)。その分、お話は柔らかく頂けたらと思いますので(笑)。
もちろん、いろいろと聞いて頂けたらと思います。
ありがとうございます。 大変恐縮ながら、僕の中では勝手に菅原さんはエリート育ちのような印象を持ってしまっていたのですが、幼い頃はどんな少年だったんですか?
株式会社アイスタイル 取締役兼CFO 菅原敬氏
いやいや、そんなに勉強ができたわけでもないですし、運動神経も飛びぬけて良い方でもなかったので、いたって平々凡々な、どちらかというとあんまりイケてない子供だったような気がしますけど(笑)。
そうなんですか。なんとなくお家柄も良さそうなイメージを勝手に持っていまして…。
そんなことないですって(笑)。 一応、自営ではあったんですが、家柄が良いなんてことは全然ないですよ(笑)。
自営ですか。お父さんが創業者ですか?
うちの父が2代目なんですよ。
お爺さんが創業者なんですね。
いや、祖母なんですよ。
そうでしたか。当時の女性起業家ですね!
戦後の混乱期に作ってしまったようですけど(笑)。
何をされていらっしゃるんですか?
ウイスキーをメインにした洋酒の輸入会社をやっていて。前は小売りも3店舗くらいやっていたんですが、今は卸のみですね。業務用の卸で、場所が銀座だったんですよ。だからホテルとかレストランとか、銀座のクラブがお客さんなんですよね。それこそバブル崩壊と同時に業績は一気に悪化、そんな感じです(笑)。
では、菅原さんは後を継ぐ予定だったということですか。
そうですね。本当に継ぐものだと思っていました。酒屋になるんだなと。
幼いころからということですよね。
中学生から小遣いもらえなくなって…。うちで働いて稼げって(笑)。いわゆる配達とかですよ。ビールケースを10段積み重ねてとか、自転車の後ろにケース2段積んで手にも何か持ちながら運転して…とか。そんなことばかりやっていましたよ(笑)。
株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
すごいですね(笑)。
そうなんですよ。完全に酒屋になるものだと思っていましたね。
受験とかはどうされていたんですか?
それがまた笑われちゃうかもしれないんですが、実は幼稚園から受験には縁がなくてことごとくうまくいかなかったので、勉強は向いていなかったんですよね(笑)。 挙句の果てには、中学時代から派手になっちゃって(笑)。渋谷や六本木で遊んだり。そんな感じだったんですよ。そこそこ成績は良かったんですが、遊び呆けちゃって(笑)。 でも、その当時遊んでいた仲間がネット業界の経営者にも何人かいたりもするので、なかなか面白いものですよね。
高校時代はどうだったんですか?
高校時代は部活ですね。応援団だったんですよ。
応援団ですか!それもまた意外ですね。
僕の通っていた高校って江戸時代からある高校で、応援団はだいぶ歴史があるんですね。代々その学年でやんちゃな人間が先輩からリクルーティングされるという仕組みになっていて…(笑)。いわゆる「気合いで何でも乗り切れる奴」みたいな(笑)。
見せ場は高校野球の時とかですか?
まさにそうですね。甲子園には行っていないので、都大会が晴れの場ですよね。代々受け継がれてきた団旗を守る親衛隊っていうのがあって、僕がその隊長だったんですよ。 野球部の試合の応援の時は、9畳ある総刺繍の尋常でない重さの団旗をずっと掲げているんですよね。一応僕の後ろには親衛隊員が6人いたんですけど、「団旗を地面につけるということは命を落とすことだ」みたいな意味を持っていて、絶対に降ろしちゃいけないんですよ。3年間やり切ったということで、やっぱり気合と根性は身についたんじゃないですかね(笑)。 逆に、大学時代はその反動で、至って普通の生活しかしてこなかったんですよ。
特に何かされていたということも無くですか?
そうなんです。本当に何もしていなくて。普通に友達と遊んで…みたいな(笑)。で、気づいた時に「このままでは良くない」と思って、思い切って「留学に行かせてほしい」と親に頼みこんだんですよ。ちょうどスコットランドに取引先がたくさんいるので、その流れで「イギリスなら良いぞ」と。
留学はどうでしたか?
いや、最初は本当につらかったですね。英語が全然だめで…。地方自治体が(移民用に)夜間に英語スクールをやっていて、それに通ったり。あとはイギリス人のDJと仲良くなってですかね。いろいろ話すうちに、なんとなく上達してきたっていう感じですよ。
それで本格的にMBAを取ろうと思ってビジネススクールに通ったという流れですね。 優秀な方も多かったのでは?
そもそも社会人経験が無い中でということもあったので、とても刺激的でした。交換留学でフランスの大学に通っていた時期もあったんですけど、そこの同級生にマッキンゼー出身の日本人がいて、彼女が非常に優秀だったんですよ。そこから「こんな風に賢くなりたい!」みたいな思いが強くなって、コンサルの道を志すようになったんですよ。
現地で就職活動もされたのですか?
しましたね。結果的に2社からオファーも頂きました。1社は、(後に入ることになるんですが)アーサー・D・リトルで、ロンドンオフィスからオファーを頂いたんですけど、ロンドンは通信とエネルギー産業が強くて、本当は(実家の関係もあり)消費財がやりたかったんですよ。でも、消費財に強いのがドイツオフィスで、さすがにドイツ語は全く分からないので、これは無理だと(笑)。 もう1社は、大手会計系コンサルティングファームで、「スポンサーにつくから会計士の資格を取りなさい」と。「ただし、その後5年間は退職してはならない」というオファーだったんですね。
その当時、もう実家の業績もあまり良くなくて、おそらく継ぐことはないんだろうなと、おぼろげながら思ってはいたものの、いずれは日本で働くとは思っていたので、「このままここで働いていたら30代になってしまう」と。「日本はまだまだ上下社会だし、20代で下積みしたことが後々活きてくるような環境だから、20代は日本にいないとマズいのでは?」と思ったんですよ。 それであれば、イギリスで就職することをやめて、インターンだけにしようと。「インターンだけ経験して日本に帰ろう」と、そういう選択をしたんですよね。
なるほど。そうだったんですね。
そうなんですよ。ここまでの話ってあんまりしたことないんですけどね(笑)。 それで、化学メーカーから9ヶ月のインターンのポジションをもらうことになるんですけど、社内コンサルタントっていう名目だったんですね。 最終目的は知らされていないまま、実務を進めることになるんですが、いずれファンドが介入してくるんです。当時イギリスで2番目に大きい総合化学メーカーだったんですが、ファンドに買収されてバラバラに切り売りされてしまったんですよ。今思い返すと、(おそらくですが)その下準備をさせられていたように思うんですね。 本社のCFO的ポジションの方の直下に就いていたんですが、外部コンサルのレビューも交えながら、僕が実際に社内コンサルとして「子会社評価」のプロジェクトを任されたんです。
子会社の評価ですか…。
もちろん子会社に行くと「なんだこいつは」と。「こんな訛りのひどい英語を使う奴が何のために来ているんだ」と(笑)。それで最初はあまり相手にしてもらえなかったですよね。
やはりそうですよね。
でも、イギリスにはパブ文化ってあるじゃないですか。夕方にはパブに飲みに行くっていう文化があるので、そこは飲みでカバーしましたよね(笑)。それで何とかうまくプロジェクトも進められたと思います(笑)。
飲みニケーションという武器で乗り越えられたんですね(笑)。 その後日本に帰ってくることになるわけですよね。
そうですね。いわゆる第二新卒のような扱いで、コンサルティング会社を何社か受けて。ありがたいことに複数社からオファーも頂いたんですが、その中で当時最も勢いを感じたアクセンチュアに決めたんですよ。ここだったら鍛えられそうだなと思って。もともとの性格なのか、やはり鍛えられる環境を欲してしまうんですよね。
メインはどのような業務だったんですか?
もともと3月・4月・5月・7月・9月・12月と、それぞれ入社月があるんですけど、志望していた戦略グループは4月入社のメンバーのみなんですね。オファーをもらった時期が3月中旬と遅かったので、最短で入社が5月だったんですよ。どうしても間に合わないから、「将来的に部門異動すればいいじゃないか」と。 それで就いたのが、当時流行りのBPRです。システム化を含めながら業務改革を進めるという、いわゆる業務改革コンサルです。結果的にアクセンチュアには3年いたんですが、ずっとその部門でした。
戦略グループへの異動は難しかったんですね。
非常に重たいプロジェクトにアサインされて、現実的に部門異動というのが難しかったですね。直属のパートナーにもだいぶ可愛がってもらっていたということもありましたし。
なるほど。それで戦略の道をという思いで、転職されたんですね。
そうですね。やはりやってみたいなと。憧れみたいなものがあって(笑)。
実際に戦略の道に進まれていかがでしたか?
コンサルタントとして一番自分が成長を感じたのはこの時期です。やはり戦略コンサルとしての経験は持っていなかったので、何とかという思いだったんですね。新卒で入ってきていたメンバー達は徹底的に鍛えられていて非常に優秀なので、何とか負けないようにという思いで(笑)。 おかげで、なんとか苦しいながらも非常に楽しい時間を過ごしました。仲間にも恵まれましたし。
その後は吉松社長から誘われて…という流れですか?
当時、2社の社外役員をやっていて、一つがアイスタイルで、もう一つがアルトビジョンという会社で。2003年の段階で「もうコンサルはやめて実業に行こう」と。「ベンチャー経営に行こう」という思いが強くなったんですよ。 どちらかというと状況が厳しい方に行かなければという思いがあったので、アイスタイルに参画を決めたという経緯ですね。
なるほど。厳しい環境に身を置くということは、過去を見ても一貫されていますね。
当然やらなければならないことが多いですしね。それに僕流されやすいので(笑)。すぐに甘えちゃうので、環境は厳しい方が良いんですよ(笑)。
具体的にはどう厳しい状況だったのですか?
一番はキャッシュのショートということがありましたが、他にも組織的なことなど諸々ありました。 当時60名ほどの組織だったんですが、創業者である吉松と山田の二人で全組織を見ていたんですね。もうここまでの規模になってくると二人では厳しいと。チーム経営の体制にしなければという思いで、まずは吉松がアクセンチュア時代の後輩であった佃(現・取締役)に声をかけて。そして、その半年くらい後に僕が入って、その2ヶ月後に高松(現・取締役)が入ってきて…という流れですね。 ちょうど2004年から2005年にかけてですけど、創業者経営からチーム経営への転換期になった時期ですね。
そうですか。でもそこまで短期間で主要の方々が一気に揃うということも凄いことですね。
そうですね。