【インタビュー】株式会社コロプラ/長谷部潤氏 - トップアナリストから設立2年目のスタートアップへ。まずは全てを数字に落とし込んだ(2/3ページ) - Widge Media

【インタビュー】株式会社コロプラ/長谷部潤氏 - トップアナリストから設立2年目のスタートアップへ。まずは全てを数字に落とし込んだ(2/3ページ)

記事紹介

インターネットセクターのトップアナリストから、設立2年目のベンチャー企業へ。
CSOとして経営戦略面の牽引を託され、わずか数年足らずで時価総額ランキング上位企業へと成長。
アナリスト出身者が事業会社内で活躍する道しるべを切り拓いた株式会社コロプラ・長谷部潤氏のキャリアストーリーを伺った。

※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

大学への進路はいかがだったんでしょうか?

先ほどの通り、歯医者さんをあきらめたタイミングから、それであればやはり公務員だなと思っていて、その中でも皇宮警察官になりたかったんですよ。勤務先は基本的に皇居ですし、ミッションも明確ですから、歯医者とは違う意味で職業としてとても合理的だな、と。ただ皇宮警察は高卒で入るものであったので、親から非常に反対されて…。大学には絶対に行きなさいと。

そうですか。それで大学に進まれて一般の公務員の道を目指されるんですね。

そうですね。大学に入ってすぐに公務員の勉強を始めました。なるべく薄い参考書とか問題集を買って。集中力がないもんですから、暇なときにちょっとずつ目を通す程度でしたけど。 国家公務員は、国家I種試験も大変ですが、入省後の転勤も全国各地が対象ですので、地方公務員狙いでした。埼玉に住んでいたので、埼玉県庁に進もうと。

何か大学でされていたこともあったのでは?

友達とサークルを作って活動をしていたくらいですね。バブルだったので、いわゆるオールラウンドサークルですか、スキーとかテニスとか何でもやりますよ的なサークルをやっていましたね(笑)。あとクルマが好きだったので、箱根とかよく仲間と走りに行きました。

3年生からはゼミが始まって、憲法のゼミだったんですが、グループで自分達の法理論や主張をまとめたレポートを、他のグループが徹底的に批判するという、結構きついことをやっていましたね。いわゆるディベートっぽく。 それをローテーションでやっていくんですが、そこで無からそれらしいロジックを作り上げたり、ディベートのやり取りであったりは学びましたね。相手を論破しなければならない反面、お互い感情的になられても困るという、会話の機微みたいなものも。

そういったレベルの高いゼミにいながら公務員を目指しているということですよね。

でも当時はバブルだったので、公務員の人気が今と比べると随分と低かったんですよ。だいぶ低倍率だったんじゃないかな。試しに(受かっても当然まだ入れないですけど)3年生の時に埼玉県上級職の一次を受験してみたんですよ。そうしたら1点不足で不合格だったんですね。合格最低点と、あと不合格者には各自の点数開示がされていましたので、分かっちゃうんですよ。

それで少し萎えてしまって…(笑)。あと1点取るために、これから1年間また勉強するのか…と。それと、試験会場にいた受験生の人達の層が自分と合わないな…ということも感じたんですよ。真面目でカチッとした雰囲気の人達ばかりだったので。とてもあんな感じにはなれないなと(笑)。

その頃から徐々に違う道(就職するであろう証券会社)にという考えになってくるわけですね。

そうですね。ある日、公務員になった時の自分の一生みたいなものも見えてしまったんですよ。入庁後のキャリアがイメージできますからね。そもそも何かに固定されるのが嫌いな性格だったので、これで人生フィックスだということにどうも耐えられなくて。

他にもいくつか業界は視野に入れていたんですか?

事業領域の広さから信託銀行も魅力的だな、と考えていたのですが、何でもやれるということは他業種から浸食されるということも大いに考えられたので、ちょっと怖いなと。それで証券会社にしようと。

その中で、大和証券さんへの入社を決められた要因はなんだったのですか?

当時は4大証券の時代で、他からもオファーを頂いたのですが、OBの方々が話をする際に、野村のOBは一人称が会社名なんですよ。「野村はね…」って感じで。で、大和のOBは「私は…」だったんですよ。そこから、大和は一人一人が自由に動けるんじゃないかな、と思うようになって、お世話になろうと決めたんです。もっとも、入社後は「野村はね…」と社員が一丸となってやり切る彼らの圧倒的強さを目の当たりにするわけですけど(笑)。

就職活動は手広くされていたわけではないんですね。

そうですね。当時はとても売り手市場だったので、ここと決めて動けばうまく進んだと思いますね。特に金融は大量採用をしていましたので。

同期入社は何名くらいだったのですか?

500名強ですね。多かったですよ。

最初は支店セールスからですか?

そうですね。

どちらの支店だったんですか?

都内のターミナル駅があるような商業エリアの支店でした。

スタートはいかがでしたか?

 

当時は、入社から正式な配属までの3ヶ月間が新人研修でした。証券外務員試験の勉強もあるんですが、営業の訓練みたいなものもあるんですよ。今はやってないと思いますが、研修期間中に最低でも口座を1件作れと。半分くらいの同期が口座を作れなかったんですけど、実は僕4件の口座を作ったんですよ。断トツのトップで(笑)。都内の複数店舗に研修場が設けられていたのですが、私が研修をしていた支店の支店長に目を付けてもらったんですかね。「ここに残れ」と。配属後も、全営業マンで1位を取ったこともありますし、セールスは結構できたように思います。

コツというか、心がけていたことはあるのですか?

とにかくお客様に対して、客観的にも理屈の上でもメリットになると思えるものだけを提案していました。いわゆるお涙ちょうだい的な営業は、後にも先にもやったことがないんです。「そのロジックで自分なら買うか?」をいつも自問自答していました。 当時、長信銀の債券がかつてなく高い利率で大人気だったんですよ。銀行に行列が出来るくらい。そこからも随分お客さんを取りましたね。行列している人に大和のパンフレットを渡したりしてましたから(笑)。

早々にそんな営業ができるって凄いですね。

本当は早く抜けられたらと思っていたんですが、結果的に10年いてしまいましたからね(笑)。

自身で見るとどんなセールスマンだったんでしょうか?

総じて変な営業だったと思います。周囲がやっていないことをやっていましたので。おそらく大和のセールスで最初に自腹でノートPCを買って、オプションの損益分岐モデル式を作ってたりしていましたからね(笑)。瞬時にブレークイーブンを抜けたかどうかを見ながらポジション調整するとか。だから古いタイプの支店長からすると「なんなんだ」という感じでしてね…。合う支店長と合わない支店長とが交互にやってくるって感じで、正直きつかったです(笑)。

結果的に支店は何ヶ所経験されたのですか?

2ヶ所だけですね。出してもらえなかったんだと思います(笑)。変な営業をしていたので、引き継げる人もいなかった感じですし(笑)。 本当にいろいろと工夫してやっていましたから。今では許されないと思いますけど、売り買いをサジェストするプログラムを組んだりとかしていましたからね。日経平均の終値を入れると、翌日の日経平均先物をロング(買い)にするかショート(売り)にするかが分かるような。月の満ち欠けというか月齢までデータとして入れていましたし。とにかく何が株価と相関係数が高いのかということを毎日のように考えていました。

支店によってターゲットも異なりますよね。

2ヶ所目は富裕層の多い高級住宅地エリアの支店だったんですが、お年寄りが多かったので、税金対策的な目線で商品を買って頂くというように方向転換をして、公証役場なども活用しながらやってましたね。 その頃から手数料というよりは預かり資産を増やしましょうという流れになってきたので、かえって良かったんですよね。株券をご自宅や銀行の貸金庫に保管されていたお客様が多かったので、それをとにかく入れて頂きました。親がその会社の役員だったので株券が自宅にあるなんて人も多く、買値(簿価)が分からない方が多かったんですよ。なので、買値を確定させるためにも一度売って頂いて、また買い直してもいいですし、投資信託であれば無記名になるし…とか。株式譲渡の源泉分離課税がなくなるって報道され始めた時期だったので、とてもやりやすかったですね。 あと、債券の評価額や税制などを税金対策に活用するとかですね。税理士同席のミーティングも多かったですね。ちなみに今も有効かは知りませんよ。当時の話です(笑)。そういった税金の知識を活かして、預かり資産を増やすようにしていましたね。  

 

いろいろと工夫をされていますね。

そうですね。リスクは取らないで、とにかく工夫をいろいろとしていましたね。 それにしてもセールスは苦しかったですけどね。今でも夢に出てくるくらいですから。

そうですか。お話の中身ではとても楽しそうに思えるのですが。

そんなことないですよ。数字のプレッシャーは強烈でしたし…。自分でも良く耐え抜いたと思います。それでも9年目、10年目となると、営業のコツというか、仕組みが自分の中で出来上がってきますので、それで何とかやってこれたというか…。ただ、そうなるとルーティンワークですから、強烈に飽きてくるんですよ。日々同じことの繰り返しですからね。さすがにこれを定年までやるのかと思ったら、なんていうか漠然とした不安がね…。

そういうお気持ちを持ってしまうと、なかなか厳しい面はありますよね。

当時の先輩たちが、35歳くらいになると記憶力が著しく低下するみたいな話を、口をそろえて言っていたんですよ。これはいろいろと考えないとな…というのもあったので、30歳くらいから資格も取るようになりました。アナリストもそうですけど、CFPとか上級シスアドとかですね。大学受験はお話にならないくらいの手抜きだったので、はじめてまともに勉強したかもしれません(笑)。

でも営業マンであまり関係のない資格を取るのって「営業辞めたいサイン」ですからね(笑)。人事面談があるたびに「辞めたいの?」とか聞かれるわけですよ(笑)。 ちょうどその時、営業からアナリストに転籍できるという制度(試験)がはじめて大和で生まれて、支店長から「こんなのあるぞ」って。試験は、小論文と面接だったんですけどね。

小論文はどういう試験だったんですか?

小論文は、受験者が任意で選んだある業界の10年後の姿をイメージしてレポートを書きなさいという内容だったんですが、鉄道会社を選んだんですよ。2000年だったのでまだSuicaとかが出る前です。 ちょうどFeliCa(ソニーが開発した非接触型ICカード規格)が、香港の公共交通機関でOctopus(オクトパス)として使用されていたんですね。鉄道会社として利用データも取れるし、ユーザーも利便性が非常に高いということで、これを日本に導入すれば、鉄道会社は一大データベース保有企業になり、eコマースなども含めて大きな可能性があるのではないか…のような内容を書いたんですよ。そうしたら小論文が通りまして…。

素晴らしいですね。面接はいかがだったのですか?

こちらが一人で面接官が6名の1:6の面接なので、こちらとしてはもはや圧迫面接ですよ(笑)。大和総研の人事部長はもちろんですけど、理事とか調査部長とか、お偉方が並ばれて、1時間みっちりと突っ込まれました。「ソニーは、君が言うようにFeliCaによる非接触規格の囲い込みを目指している一方、同じく規格囲い込み狙いのメモリースティックの失敗についてはどう考えるか?」とかキツかったですね(笑)。先方はプロ中のプロですから、客観的なデータも諳んじて出てきますし、ロジックも精緻で、一瞬の猶予も与えてもらえない面接でした。でも面白いのが、面接の終わりに関西弁の理事さんから「君は、徹夜はどうなんや?」、「体力あるんか?」みたいな打って変わって非論理的な質問もあったり(笑)。今でいうとブラックな香りもしたんですが(笑)、こちらとしては必死ですから、「体力?ええ、この体格を見てくださいよ」とか返したり(笑)。そんなこんなで、面接も運よくパスできました。

そうですか。そこからアナリストの道が始まるわけですね。

そうですね。ただアナリストもなったらなったで諸々辛い面がありました。はじめは通信(テレコム)のチームだったんですが、テレコムって上場をしている企業が当時少なかったんですよ。なので、待てど暮らせど担当がない…という毎日でした。 アナリストの評価っていうのは、しっかりと担当企業を持って、その担当企業のカタマリであるセクターを語って、それが機関投資家の評価に繋がって、日経アナリストランキングなどになっていくわけです。だから担当銘柄がないとどうにもならないんですよね。最初の2年くらいは機関投資家が興味を引くような担当企業がほとんど無かったんで、非常にしんどかったですね。

当時セールスからアナリストに移られた方は他にもいらしたのですか?

 

通常の人事異動で移ってきた人が、それも偶然同期で一人いたのですが、転籍試験では僕が第一号だったので、そう言う意味では僕一人ですかね。

そうでしたか。 そこからはどのような変化があったのですか?

ちょうど2年くらい経った頃に、携帯コンテンツなどを担当していた先輩が異動になるということで、「長谷部担当しないか?」と声をかけてもらって。「マジっすか!?何でもいいから下さい!」みたいな(笑)。それから「携帯コンテンツと言うものの、これは一種のインターネットサービスなので、いわゆる『モバイルインターネット』である」なんて、セクターっぽい内容に仕上げていったんですよ。 徐々にITバブル崩壊の傷も癒えて、iモードも大きく伸びていった時期なんですよね。 レポートも「携帯は手の中のドラえもん」、「萌えるインターネットサービス」といったキャッチ―な副題をつけたりしたら、機関投資家の間でも話題になったようで、だんだんアナリストランキングも上がっていったんですよ。

そうなんですね。 インターネットセクターも黎明期からですけど、それこそモバイルに関しては、本当にゼロから一緒にやってこられている感覚なんですね。

まさにそうですね。事業会社の方々とも、ITバブル崩壊の苦しい時から一緒にやってきているので、戦友と言うとおこがましいかもしれませんが、それと近しい感覚はありますよね。

アナリスト時代の活躍は目覚ましいものがあったかと思います。

活躍と言えるかどうかは分かりませんが、とにかく本当に楽しくやりがいはありましたね。「あれも書こう、あれも調べよう、あそこにも取材しよう、ああ仕事が面白いなぁ」なんてがむしゃらに走っているうちに、気づいたらランキング1位だったという感じでした。 大和総研(現大和証券企業調査部)という職場についても、上司(役員や調査部長など)は理解力が高いというか視野が広いというか、正直もう50歳過ぎのおっさんなのに本当に色々くだらない芸能ネタまでカバーしてるんですよ(笑)。ああいうおっさんになりたいなって思いましたからね。同僚もユニークかつ優秀でしたから、職場としては本当に素晴らしかったと思います。一人一人が勝手に好きなことやっているのに組織としては強いみたいな感じで。 ネガティブだった点を強いて言うと、英語が苦手なので、海外出張が本当に辛かったですね(笑)。行きの飛行機の中では、何とかラーニングのように延々と英文プレゼン資料をイヤホンで聞きつつ音読していましたから(笑)。

当時の長谷部さんは社内でどう見られていたんですかね?

どうなんですかね。自由にやっているよねっていう感じですかね。 あとは、アナリストって四半期に一回、機関投資家を回るための資料を作るんですけど、多くのアナリストは四半期数字を更新するくらいなんですね。資料の骨格は変わらないんですよ。僕の場合は、毎回エクイティストーリーを考えて、今回のネタは…、今回の銘柄は…、みたいな出し方をしていたので、ある意味ストーリーテラーと思われていたかもしれないですね。半年、一年先の近未来を語るという感じですかね。妄想といっても良いかもしれませんが(笑)。

事業会社側にしてみれば、そのストーリーに合うか合わないかというのは興味深かったでしょうね。

そう思います。まだマーケットも固まっていないですし、僕のロジックやストーリーに違和感がないと、事業会社側がそれに沿って動いてくれたりしたんですよね。そうすると妄想が現実になってくるじゃないですか(笑)。

確かにそういうことってあるんですね。 そのあたりが、やはり名アナリストの所以のような気がします。そんな状況の中、後に事業会社である現職に移られることになるのですが、そのきっかけは何だったのですか?

   

皆さんそうなんでしょうけれども、転職って一概に「これが」という理由って挙げるのが難しくて、諸々積み重なってなんですよね。 リーマンショック後なので、当時の会社の状況も当然ありましたが、それまでずっと見ていたモバイルセクターが一つ上のステージに向かったタイミングなのかなという感覚もありました。各社がオープンプラットフォーム化へと向かうことも明白でしたし。それこそ着メロの時代から見ていて、ある意味ひとつ大きな山を越えた感覚があったんですよね。

同時に、事業アイデアであったり、経営するにあたっての心構えであったり、これやっちゃダメというリスク項目だったり、立場的に何百回というほど取材をさせて頂いたりしていたので、だんだん「自分でやってみたい」という思いが大きくなってきたということは事実ですよね。

コロプラさんとの出会いもその頃ですか?

そうですね。日本有数の位置情報保有企業だというので未上場企業ながらも取材に行ったんですよ。 先ほど鉄道会社の利用データの話をしましたけど、あの頃からライフログには非常に興味があったんですよね。人々の足跡をデータとして活用していくという。 それこそコロプラのやっている位置情報って、ゲームをやればやるほど貯まっていくわけで、とても仕組みがキレイだなと思ってたんですよ。それで取材に行ったらとても意気投合したという流れです。