【インタビュー】グリー株式会社/大矢俊樹氏 - 子会社社長から時価総額3兆円企業の取締役CFOへ。揺るぎない情熱と大切にした価値観(2/4ページ)
カリスマ創業者が去り、大きな転換期を迎えたヤフー株式会社にCFOとして参画。再び時価総額を3兆円台まで回復させた宮坂体制を、副社長兼CFOとして支えた大矢俊樹氏。激動の6年間を経て、現在、グリー株式会社の取締役として全体を牽引する同氏のキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
そんな中、次のステージに移ろうという思いに至ったのは何故ですか?
監査法人にずっといるという人が、そんなに多数派でもないので。 ある程度の経験を積むといろいろと考えますよね。
ご年齢はおいくつだったのですか?
29歳ですね。タイトルはマネージャーでした。
たしかに、いろいろと考える時期だったのかもしれないですね。
独立をしてコンサルのような仕事をするのも一つだと思いましたし、士業ではない道に進むのも面白いかなと思っていました。
当時、監査法人から事業会社に転職をする方、まだ少なかったですよね。
そうですね。あまり聞かなかったですよね。
しかも、当時まだ設立間もないSBIさんに進まれることになります。 周囲からの反対などは無かったのですか?
反対は特に無かったですね。自分が本当にやりたいなと思ったので。
SBIさんに転職しようと思われたきっかけは何だったのですか?
ご存知の通り、「ビットバレー構想」も1999年ですし、ちょうど「インターネット」とか「インターネット株」という言葉が多くなった頃なんですよね。そして、ナスダック・ジャパン設立の発表がありました。 米NASDAQとソフトバンクの折半出資で立ち上がったのですが、当時の僕は「こんなことがあり得るんだ」と、とても驚いたんですよ。 それで、「ナスダック・ジャパンで仕事がしたい」と思って、そのまま応募をしたんです。
ナスダック・ジャパンに応募をされたのですか。
そうなんです。それで関係者と会っていったのですが、話を進めるうちに、北尾さんのいるソフトバンク・インベストメントが僕に興味を持ってくれたんです。「市場の仕事はできないけど、投資の仕事はどうだ?」みたいに。
ナスダックへの応募から始まったということだったのですね。
はい。市場の仕事もとても魅力的に映っていたのですが、リスクをとって投資をして、その経営に参画して…というような話を聞いて、さらに魅力を感じてしまったんです。
SBI(旧・ソフトバンク・インベストメント)さんの設立も1999年ですよね。
僕が入ったのは、設立して3ヶ月くらいの頃ですね。社員はそれなりにいましたが、ザ・体育会系の風土そのものでした。座っていると殴られるみたいな(笑)。今では考えられないですけどね。投資先を見つけてくるまで絶対に帰れない…みたいな(笑)。
監査法人時代とは全く異なる社風ですね(笑)。
入った直後は本当に失敗したかな…と思いましたよ(笑)。若かったということもあって情報収集もあまりしなかったですし。
当時の社内には、他にも会計士の方はいらっしゃったのですか?
いや、僕一人でしたね。 だからこそ、だいぶカルチャーショックがありました…(笑)。
1~2ヶ月くらいで辞めたいな…と思っていたところだったのですが、ちょうどそのタイミングに「インターネットファンドをやろう!」という企画があがってきたんです。
当時、IT銘柄のみに投資をするファンドは他にもいくつかあったのですか?
ちょうど出始めの頃だったと思いますけど、まだそこまで馴染みはなかったですよね。 需要は間違いなくあって、「インターネットテクノロジーファンドと称して、1500憶円のファンドを立ち上げる!」という話になったんです。
いきなり1500億円ですか!
そうなんですよ、凄いですよね。 3ヶ月で1400憶円くらい集まりましたからね。 結果的に、ストラクチャリングとか投資家への説明とか、組成にかかわる諸々を任せてもらえて。
会社としても、会計士の大矢さんがいらっしゃったというのが大きかったですね。
そうですね。その辺りをできる人が社内にはいなかったので、良かったと思います。僕もやりがいある仕事に就けたので(笑)。
SBIさんには何年でしたっけ?
3年半くらいですね。
濃密な3年半ですね。
本当にそうでしたね。最初の1年半は、ファンドの立ち上げや管理など、今お伝えしたような仕事をしていたんですが、後半の1年半は、別に組成したバイアウトファンドから投資をした先に、マネジメントとして常駐していたんです。 経営に携わるという面でいうと、そこが最初の経験になりましたね。
再生も手掛けていたのですね。 地方の会社ですか?
名古屋の会社ですね。建設業なのですが、当時は割と有名だったんですよ。ナスダックにも上場をしていたんですが、粉飾決算で潰れてしまって…。 そこに民事再生でソフトバンクがスポンサーとなって、僕と何名かが社長の下に派遣されてという流れでした。
実年齢から考えると、なかなか得難い経験ですね。
そうですよね。まだ32歳くらいでしたから。そんな若者を受け入れてくれた会社側にもとても感謝していました。 自分なりに一生懸命やっていたんですけど、振り返ると、やはり会計士の領域を出ていなかったですよね。社内規定をいろいろと整理してみたり、管理会計の仕組みをつくったり、できることは積極的にやっていったのですが、「会社を変える」っていうところまではいけなかったんですよ。 もう少し時間が欲しかったという本音はありましたが、非常に貴重な経験をさせてもらえたのは事実ですね。
その後はどうされたのですか?
できればそのまま続けていたかったのですが、本社から「経営企画を拡充するから戻ってきてほしい」と声がかかり、異動になってしまったんです。
でも、実際に事業会社の経営そのものを経験してしまうと、なかなかそれ以上のやりがいを見つけられなくて…。 そんなモヤモヤしていた時に、ちょうどヤフーの佐藤(佐藤完)さんと梶川(梶川朗)さんから「うちに来ないか」って声を掛けてもらったんです。
それがヤフーさんへの扉だったのですね。
そうですね。すべてが縁ですけど、事業会社そのものが面白いなと思って、行ってみようということになりました。
やはり「縁」がありますよね。
僕の人生って、節目のタイミングで、必ず誰かが現れるんですよ(笑)。とてもありがたいことに、誰かが僕を必要としてくれて、それに導かれるようになっているというか…(笑)。
ヤフーさんでは、まずどういった業務からスタートされたのですか?
最初は内部監査からでした。社内の各部門のことが分かるじゃないですか。ちょうど良かったですね。 1年弱くらい内部監査をしていて、その後は、M&Aや各種提携を行う部門を見るようになりました。それが2年くらいですかね。
当時、M&Aはだいぶ積極的にされていたのですか?
割と盛んにやっていましたね。月に1社くらいのペースでやっていましたので。提携とか投資とかも含めて、20~30社くらいはやったと思います。
2年ほどM&Aなどに携わられて、その後は?
その後は、クレオという会社になりますね。 当時のヤフーは、「やりたいサービスは沢山あるんだけど、エンジニアが足りない」という事情があって、社長の井上さんからも「エンジニアを大量に供給してくれるパートナーが必要」というアナウンスがあったんです。 いろいろと探す中で、クレオという会社に出会って、僕が投資を判断しました。自ら役員になって、経営に参画していったという流れですね。
クレオさんに参画された方は他にもいらしたのですか?
いや、僕だけですね。井上さんには社外役員をお願いしていましたけど、自ら一人で参画して、しばらくCFOとして様々なことに注力していました。
会社としてはどういった状況だったのでしょうか?
管理体制があまり確立されていなかったということもありますが、様々な面で、根深い課題が山積されていましたね。 なので、単一の施策でどうにかなるという問題でもなく、いくつか打ち手が必要でした。
具体的にはどういった取り組みをされたのでしょう?
まずすぐに着手したのは、不良資産のようなものを落とす作業ですかね。 事業としては、受託の事業と、法人向けのパッケージ事業、コンシューマ向け事業と、主に3つがあったんですね。 受託の事業に関しては、ヤフーや富士通などからの仕事のため安定をしていて、コンシューマ向けに関しても、筆まめというトップシェアのソフトを展開していたので順調でした。
問題は、法人向けのパッケージビジネスでしたね。人事給与や会計ソフトを中堅企業向けに展開していたのですが、これがなかなか採算が合わなくて…。トラブルのコストまで含めていろいろと資産化してしまっていたので、償却がどんどん翌年以降に膨れていってしまって、雪だるま式の状態だったんですよ。 これを一度バサッと落とそうと。