【インタビュー】株式会社ユーグレナ/永田暁彦氏 - 自らのリソースは全て自社のために。「ユーグレナに何ができるか」を常に追い求める(1/4ページ)
投資先支援という立場から、社外取締役を経て、取締役CFOへ。東証マザーズ・東証一部への上場を牽引し、現在はリアルテックベンチャー支援の株式会社ユーグレナインベストメントの代表も務める永田暁彦氏。そのキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
永田さん個人でのキャリアに関するインタビューは久し振りですか?
そうですね。自身のキャリアに関してはだいぶ久しぶりですね。 ユーグレナとしても、社長の出雲を前に出すと決めているので、僕はあまり出ないです。もともと取材もあまりお受けしていないです。
永田さんご自身としての考えでもそうなのですか?
自分が広報の責任者でもあるので、とにかく「出雲充」という名前と顔が覚えられるまでは、ユーグレナというものに他の人間が出るのを極力控えようと。やはり人っていくつも覚えられないじゃないですか。なので、とにかく「出雲を出す」と。
たしかに他の役員の方も、そこまで露出が多くないですね。
そうなんです。例えば、大学とかアカデミア向けの研究に関して…などの場合は、研究側の者が出ていたりしますけど、基本的にはそのスタンスに変わりはないですね。 メディア露出というのは、企業としての戦略の一つであるべきで、経営者の自己顕示欲や承認欲求が混ざると戦略を誤ります。
最近少し私や他の役員の露出を増やしているのですが、それには広報としての戦略的背景があるのです。その背景は言えないですが。
株式会社ユーグレナ 取締役CFO 永田暁彦氏
永田さんとは、前回全く別の機会に、少しお話を伺いましたけど、その経営感覚というか、ビジネスに対する視点がとても鋭いなという印象を持っていまして…。 それはもともと備わっていた能力なのかな?ということもあったのですが、経営者家庭に育った等なのですか?
全然違います。経営とはかけ離れています。 父は、精神的な疾患や身体障碍を持って大人になった人が来る平塚のデイケアで働いていまして。
マイクロバスを運転して皆を連れて公園に行く、みたいなことを今でもしてます。いわゆるソーシャルワーカーですね。
自らそういった事業を立ち上げて…等ではなく?
完全に雇われ人としてです。はっきり言ってしまうと、非常に給与も安いんですよ。 今は50代の後半になりますけど、これまで手取りの月給が30万円を超えたことは無いんじゃないかなと思います。 職種としては母も同じで、二人とも福祉関連の仕事です。
株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
そうでしたか。 両親お二人ともが福祉関連の仕事をされているということであれば、物心ついた頃から、そういった仕事に就こうと思われていたのではないですか?
少なからずありました。読書をする領域が親の影響を多分に受けていたりとか、大学の授業で心理学を選択することになる…とか。
幼い頃は何かスポーツもされていたのですか?
幼少期でいうと、あまり僕はスポーツが好きではなかったんですよ。 一通りはやらされたんですけど、あんまり好きになれなくて…。 それよりも、当時住んでいたマンション(というよりもアパートですかね)の隣に、一級建築士の人が住んでいて、その人の家に行って、ハンダゴテで一緒にトランジスタラジオを作ったりとかしていましたね。
そうですか。それもまたおもしろいですね。
祖父も船上エンジニアで、祖父の家の庭にもエンジニア小屋みたいなのがあって、そこに行くといろいろあるんですよね。プレハブ小屋で、とてもワクワクしていた記憶がありますね。 で、幼少期の頃に、(こんな話はしていないと思うんですけど)母や祖母から聞くと、「MITに通ってNASAに行くんだ!」みたいな話をしていたと(笑)。
MITにNASAですか??
MITなんて大学生になっても知らなかったくらいですからね(笑)。だから結構謎なんですけど、でもNASAに行くっていうことは間違いなく言っていたと思うんですよね。
すごいですね。
もともと九州にいたので、北九州の八幡製鉄所跡地にスペースワールドっていう宇宙のテーマパークがあって、小学生の頃は夏休みなどによくそこに宇宙合宿みたいなのに行っていたんですよ。
おもしろいですね。
だから宇宙とか工学にとても興味があったんですよね。
そうなのですね。であれば、そういった図鑑などもよく読まれていたのでしょうね。
そうですね。生物とかも含めて図鑑は多かったですね。天体望遠鏡とか顕微鏡とか、子供のころ祖父母に買ってもらったものはそういうものが多かったです。
もともと九州のご出身だったのですね。
厳密に言うと、生まれは山口の下関で、保育園くらいの時に福岡に移りましたね。 それで、12歳から長崎の中学の寮に入るんですよ。
そうでしたか。
12歳から親元を離れて、長崎の中高一貫の寮に入っていまして。 18歳までそこにいて、それで18歳から大学で東京に来ると。そういった流れですね。
そうだったのですね。 12歳から親元を離れるというのは、結果論として良かったと思いますか?
そうですね。良かったと思います。 やっぱり独立心というものがとても付きましたし、4人部屋だったりもしたので、24時間そこに社会が存在するじゃないですか。 生き残るっていう言い方は大袈裟かもしれないですけど、特別に頼るという存在もいないので、結構辞めていってしまう人もいましたし。 兄弟がいなかった分、社会性を学ぶという意味ではとても良かったと思いますね。
やはり辞めていってしまう人達もいますよね。 その中で、結果的には良い道であったと。
そうですね。まぁ、辞められないというのもありましたよね。 先ほど少し触れましたけど、そこまで裕福な家庭でもなかったので。小学生の頃、受験するための塾に行くのも、自宅で母と一緒に内職をしていましたからね(笑)。
それは凄いですね。
両親が僕に教育を与えるために自分たちのプライベートを全て犠牲にしていたので、辞められないって思ったんですよね。もちろん苦しいとか、辞めたいっていう思いが出てくる時もあったんですけど、両親が無理して行かせてくれている学校を投げ出すわけにはいかないと。
それはいくつ位の時に思ったのですか? なかなか幼い頃に親に対してそこまで思えるということも少ないと思のですが。
そうですね…。記憶にあることでいうと、小学生の頃、たこ焼きサンタという移動型のたこ焼きさんが、毎週自宅の近くに来ていたんですね。で、来るたびに「たこ焼き食べたい!」と母に言っていて、そのたびに母は、赤い貯金箱から500円玉を出して僕に渡してくれていたんです。 で、ある日その500円がなくなるんですよ。その時、幼心に「もうたこ焼き食べたいって言っちゃダメなんだ」って思ったんですよ。 結局それって母が独身時代に貯めていたお金だったんですよね。 そこから、お年玉とかクリスマスとか、何かを欲しいって言うことは一切無くなったと思いますね。
そのエピソード、今でも記憶にあるということは、結構大きなインパクトだったのですね。
そうですね、衝撃的でした。ゼンマイ式の貯金箱、今でもはっきり覚えていますよ。 「たこ焼き食べたい」って言ったらダメなんだ…っていう、その時の何とも言えない思いですよね。 当然ご飯は普通に食べれたんですけど、それ以外に欲しいものを言える余裕がない家なんだということを、その時にはっきりと気付いたのかもしれないですね。
だから塾に行く時も、当時は皆、帰り道とかでお菓子とかを買っていたりしたんですが、僕はお小遣いも無かったですし、むしろ塾に通うために母と一緒に家で内職をしていたくらいですから。
たしかにそうですよね。
でも、かえってそれが良かったと思っているんですよ。「価値のあるものが上から降ってくるわけではない」ということであったり、「何かをさせてもらうという際、それは誰かの労働のもとに成り立っているんだ」ということなどが学べたので、結果的にはすごく良かったなと思いますね。
それにしても、プライベートを犠牲にしながら…という先ほどのお話のような環境においても、息子には様々なものを経験させておきたいという、これはもう親心以外の何物でもないですね。
そうですね。二人は好きな仕事を選んでいるんですよね。まさにバブル期でしたから、その中でああいった仕事をするっていうことは、本当に好きでないとやらないと思うんですよ。 自分たちがやりたくて選んだ仕事が、相対的に見て収益性の低い仕事だとしても、それを理由に、子供の教育を劣後させたくないというのはあったんだと思いますね。
寮生活の中でのエピソードなど、何かありますか?
中学時代のエピソードでいうと、僕らの代って、歴史上最も成績の良かった代なんですけど、最も素行が悪かった代とも言われていて、とにかくやんちゃだったんですよ。 やんちゃっていう度を超えてしまっていたと思うんですけど、寮で節分の行事があったりすると、その流れで鬼役の寮監を殴っちゃったりとか、とにかくメチャクチャだったんですよ(笑)。 そんな騒動で皆が騒いでいる中、僕は部屋で一人で本を読んでいたりとか。部屋から出たらみんなが怒られていて…みたいな(笑)。
それってある意味強いですよね。
そうですかね。
周りのみんながワーっと騒いでいる時に、おそらく一緒に騒がないと「浮いてしまう」という気持ちで、(自らの意と反して)一緒に騒いでしまうという人も多いと思うんですよ。 それに流されないで、自分の好きなことをするというのは、ある意味強さですよね。
なんとなく変なこだわりはあったかもしれないですね。わざと右と左が違う靴下を履いていたり(笑)。 先生から「お前違うぞ」みたいに言われると、「先生は分からないと思うけど、これが格好いいんですよ」みたいな、ちょっと痛い子でした(笑)。
それは面白いですね(笑)。 そういった、自分に一本軸があるというか、自分の芯は崩さないというか、そういったものは勉強に関してもそうだったのですか?
まさにそうで、高校3年間は、数学しかやらなかったんですよ。やりたくないことをやりたくない性格なので。 英語も国語も社会も理科もやらないと。テストで0点を取ったこともあります。
それも凄い話ですね。
ある数学の先生との出会いが良かったんですが、とてもセンスのあふれる先生で、毎日その先生が出す問題に対して、先生が驚く回答を考えることばかりしていましたね。
当時は寮だったので、朝6時30分に起きて、体操して掃除して朝ご飯を食べると、朝の自習時間があったんですね。それで学校に行って、18時に帰ってきて、風呂・夕飯を終えると、19時から0時までまた自習なんですよ。必ず毎日5時間近く寮で勉強をしなければいけなかったんですね。
寮で勉強をしなければならないその時間、いわゆる青春時代の大切なその時間を、やりたくない勉強のために使いたくはなかったので、どうせ勉強をやらなければいけないのなら、好きな勉強だけやろうと。そう思ったんですよ。
姿勢がぶれないですね。
単にわがままなだけなんじゃないですかね(笑)。
それって親の性格を継いだということもあるのかもしれないですね。
それはあるかもしれないですね。そう言われると似ていると思います。 父は、その領域における国家資格を全て持っていて、学校の先生をしていた時期もあったりするので、たとえばそういった先に就職をすると、すぐに昇進していくんですよ。 ある養護学校に入ると、3年くらいですぐに校長先生になっちゃったり。でも校長はやりたくないって言って次の職場を探すんですよ。現場をやりたいから(笑)。
それは、良い意味で凄い頑固ですね(笑)。
そうなんですよ。それを僕の知っている限りでは何回もしているので、よっぽどですよね。 外から見れば立派な職位なんですけど、やりたくないから辞めると。金銭的不自由とか、社会的地位みたいなものは全く関係ないんですよ。現場で(平社員で)、なるべく様々な人に接していたいと。
すごいですね。それは多少DNAとして受け継がれているかもしれないですね。
そうですね。それはあるかもしれないですね。