【インタビュー】株式会社コロプラ/長谷部潤氏 - トップアナリストから設立2年目のスタートアップへ。まずは全てを数字に落とし込んだ(1/3ページ)
インターネットセクターのトップアナリストから、設立2年目のベンチャー企業へ。
CSOとして経営戦略面の牽引を託され、わずか数年足らずで時価総額ランキング上位企業へと成長。
アナリスト出身者が事業会社内で活躍する道しるべを切り拓いた株式会社コロプラ・長谷部潤氏のキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
なかなかこのようなインタビューを受けて頂けることも無いと思いますが。
そうですね。サービスや事業の取材はもちろん受けていますが、一個人としてはないですね。
貴重な機会を頂き光栄です。
GMOの安田さん、スタートトゥデイの柳澤さん、そしてアイスタイルの菅原さんと、錚々たる先輩CFOの後、となれば断れませんから(笑)。ただ、これまでの皆さんのインタビューかっこいいですよね。僕はそんな立派な人生を歩んでいないので…(笑)。
いやいや(笑)。
本当にそうですよ。平々凡々に育ってきていますから(笑)。
長谷部さんの幼少期ってあまりイメージがわかないのですが…。
僕は本当にどこにでもあるような公務員家庭で育っていますから。
そうなんですか!
親戚一同みんな公務員です。役所で働いている人もいれば、警察官や消防士など、いわゆる公務員一族ですね。
子供の頃の夢って何だったのですか?
歯医者さんですね。
歯医者さんですか!? なぜ歯医者さんになりたかったんですか?
株式会社コロプラ 取締役CSO 長谷部潤氏
幼稚園くらいまでって、よく大人から「大きくなったら何になるの?」って聞かれるじゃないですか。そもそもその「何かになる」って意味が良く分からなかったんですね。「何になりたい?」って聞かれても、僕は僕だし…変身するのか?みたいな(笑)。それでその「何」っていうのは「お仕事だよ」って聞かされるわけですよ。
で、母親にだったと思うのですが、「お仕事ってどういうことなの?」と聞いたら、「お金を稼ぐ手段ですよ」と。「ご飯を食べられたりしているのも、パパが働いてお金を稼いでくれているからなんですよ」と。「それがお仕事っていうものなんですよ」という風に教えてもらったんですね。であれば、同じ労働をするのなら、たくさんお金を頂ける方が合理的じゃないですか。それで「どの仕事がたくさんお金もらえるの?」と聞いたら、弁護士と歯医者だと。
どんな仕事かいろいろと説明は受けたんですが、弁護士の仕事は一向に理解することができなくて…(笑)。歯医者は当時も通っていたりもしていたので、どういう仕事かが理解できたんですよ。だから「歯医者さんに」ということを言っていました。
幼い頃からそんな風に考えていたんですね(笑)。
そうなんですよ(笑)。当時(昭和40年代ですよ)毎日10円のお小遣いをもらっていて、近所の駄菓子屋さんに買いに行くんですけど、そこら辺から金銭とか貨幣価値みたいな概念を子供ながらに養ってきたような気がしますね。 だから、何かする時にはお金が必要で、そのお金はどこから来るんですか?の答えが「働いて得るものだ」という親の話は理解ができましたし、ならば働くなら合理的に働く方が良いに決まってるじゃん、と。
歯医者さんになるって言っていた時の周りの反応ってどうだったんですか? そもそもその頃の時代の子供の夢って…。
はっきりと覚えていますが、小学校三年生の時の授業で、「将来何になりたいか、みんなで絵を描きましょう」みたいなものがあって、周りはみんなプロ野球選手とかパイロットとかなんですよ。僕だけ歯医者さんの絵を描いて…(笑)。かなり浮いていましたよね(笑)。
そうなりますよね(笑)。
株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
でも、中学生になったくらいの時ですかね、歯医者になるには大変な初期投資が必要だということが分かって…(笑)。うちの年収では、この金額はきついんじゃないかと。
そうでしたか。 小学校・中学校は普通に公立だったのですか?
そうです。普通に地元の公立に通っていました。昭和50年代ですと、まだまだ私立中学は一般的ではなかった気がしますね。まして私立小学校なんて想像もしてませんでした(笑)。
その頃何かされていたことはありますか?
不思議と習い事は随分やっていましたね。ピアノとか習字とか剣道とか絵画とか…。あとは地元の学習塾とか。
ずいぶん多彩ですね。 今でも活きている面が多いような気がしますが。
そうですね。似合わないと思いますが、今でも暇があればピアノを弾きますし(笑)。
それもまた意外ですね!
あと学習塾に行って初めて勉強の楽しさを知ったということはありますね。小学校の中だけでは勉強の面白味ってなかなか分からなかったんですね。塾に行って初めて人と競い合うというか。受け身でなく、自らが問題を解いて進んでいく面白味ということが理解できるようになったというか。 そんな感じで、習い事は多かったですが、普通にただただ平々凡々な少年時代でした。
中学時代は何か部活動などされていたのですか?
ずっと地元の道場で剣道を習っていたので、中学でもそのまま剣道部に行きたかったんですけど、廃部になってしまって…。それで仕方ないのでテニス部に入りまして(笑)。
テニスですか! なぜそこでテニス部を選択されたのですか?
いわゆる集団のスポーツがあまり好きじゃなかったんですよね(笑)。で、棒を振り回すという意味でテニスも似ているだろうと(笑)。
竹刀をラケットにですね(笑)。 中学時代はどんな少年だったんですか?
中学時代は暗黒時代ですかね(笑)。
暗黒時代ですか(笑)!?
全国的に校内暴力がピークの時期でしたからね。ご存じないかもしれませんが、金八先生の腐ったみかんとか加藤優の頃です。世の中の空気感に影響されてか、学校の雰囲気は悪かったですね。授業にならない日も多かったですし。
そんな状況だったんですね。 中学を卒業されて、高校は普通に受験をされて…ですよね。
そうですね。地元の県立に。進学校というより受験校ってみんなで揶揄していましたが、おおらかで自由な校風でしたし、何かに特化して優秀なヤツも多かったので、勉強以外はとても充実していましたね(笑)。
高校でもそのままテニス部だったんですか?
高校では文科系の部活に入りたくて、写真部に入ったんですよ。あとは正式な部員というわけではなかったんですが、電算部といって、今のパソコン部ですよね。当時はまだパソコンという言葉もなくて、マイコンて言っていたんですけど。
写真部の中にとてもPCにはまっていた友人がいたんですよ。それでみんな感化されて周りも買いだして。当時は雑誌にプログラムが載っていて、それを自分で打ち込んで遊んでいたんですよ。とても面白かったですね。だから高校の時に、今でいうITっぽい方向に興味が出てきたということですよね。
電算部といっても、当時ですとそこまで部員も多くなかったのでは?
そうですね。ほとんどいなかったですよ。実質は同好会でしたし、僕も写真部の友人に誘われて行っているくらいだったので、正式な部員ではなかったですし。 でも本当に面白かったですね。一番知的好奇心が旺盛な時期にコンピュータに出会えたということは良かったと思います。CPUの番地やプログラムってどういう風に動くの?ということを早い段階で理解できましたしね。
とても充実した高校時代だったということですね。
本当にそう思いますね。写真部として、旅行をしながら様々なところで写真も撮りましたし、部室にいる時は(なぜか写真部なのに)コンピュータが置いてあったので、そこでプログラムを組んでゲームをするみたいな(笑)。 当時アメリカのカードゲームが写真部内で流行っていたんですよ。UNOとかミールボーンズとか。池袋パルコに輸入のカードゲームを仕入れているお店があって、そこでゲームを買ってきて、それをコンピュータゲームにできないかということで、みんなでプログラムを考えて…みたいなことをやっていましたね。
そういう意味ではとても充実していましたよね。本もたくさん読みましたし。純文学から政治哲学宗教まで。基礎的な知識というか雑学はいろいろ詰め込んでいました。