【インタビュー】サイボウズ株式会社/山田理氏 - 会社は人を幸せにするツール。サイボウズを通じて、社会を変えていきたい(2/5ページ) - Widge Media

【インタビュー】サイボウズ株式会社/山田理氏 - 会社は人を幸せにするツール。サイボウズを通じて、社会を変えていきたい(2/5ページ)

記事紹介

日本興業銀行にて市場部門等を経験した後、サイボウズ株式会社にCFOとして参画。同社のIPOならびに史上最短での東証2部上場を経由し東証一部上場までを牽引。その後、取締役副社長・サイボウズUSA社長を兼務し(自ら米国に赴任し)、グローバル事業拡大も先導している山田理氏に、そのキャリアストーリーを伺った。

※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

お父さんは元々厳しい方だったのですか?

厳しかったですね。昔ながらの人なので。中卒で、メーカーのサラリーマンとして、ずっと叩き上げで営業をやってきた人で。

だから勉強という面もいろいろと思うところがあったと思うんですよ。会社に入ってからもずっと自分で勉強を続けていたので、いろいろと葛藤もあったと思いますし。

そういうこともあってか、「ちゃんと勉強はしていた方がいいぞ」とか、「英語を勉強すると海外の人とたくさんコミュニケーションが取れるようになるから」とか、そういう話は30~40年前から聞いていましたね。

 

ホームステイの話は、それでも気持ちを押し通したと。

そうですね。最後は親なので、「お前がそこまで言うなら行ってこい」って行かせてもらいました(笑)。

その辺りも、やはり我を通す信念があるのですね(笑)。

そうですね。そこは今でも一緒かもしれないです。自分のやりたいって思うことというか、正しいって思うことを通しますね。どちらが儲かるか…とか、どちらが当たり障りがないか…とか、そういうのは全く意識せずに、どちらが正しいか、どちらがやりたいかで決めますね。

それは現在のスタンスでも大切にされているのですね。

でも、アメリカに行って、テキサスでホームステイしたんですけど、運転していたキャデラックで家のガレージをガンって壊しちゃって…。ホームステイ先を追い出されて、半年でカリフォルニアにホームステイ先が移ったという…(笑)。

すごいネタがありますね(笑)!

 

さすがにマズいと思いましたね(笑)。そんな紆余曲折あって、帰国して、受験勉強して…という流れです。

そうでしたか(笑)。それで先ほどの通り、大阪外国語大学に入学されますが、特に熱中したことと言えば何になりますでしょうか?

テニスですね。

テニスですか。体育会のテニスということですか?

そうですね。体育会の庭球部に。

テニスにも団体戦があるということが分かって、個人戦は大した成績が出せなかったんですけど、とにかくチームを強くするんだ、(最も下のリーグでもあったので)とにかく上のリーグに上がるんだという強い気持ちでやっていましたね。

それと、大阪外国語大学体育会というのがあって、3年生の時にその委員長を務め上げました。

どういったことをされていたのですか?

各クラブの主将やマネージャーを集めて、この体育会の運営をどういう風にしていくか…とか、リーダーズトレーニングみたいなこともしていましたね。その時に「チームって何だろう」とか「リーダーって何だろう」みたいなことも考える機会がありました。

それは素晴らしい経験ですね。

そうですね。とても良い経験になりました。

それともう一つ、大学時代で今の自分を築いている大きな経験がありますね。

なんでしょう。

4年生の時に世界一周をしたんですよ。アルバイトでお金を貯めて、7ヶ月間バックパッカーで。

行先も決めず、ひとまず西へ西へということだけ決めて、その時々出会った人達に「どこがいい?」って聞いて歩いて。26ヶ国は周りましたね。

その中でも、中国での光景がいまだに頭に残っているのですが、当時は上海でさえ高速道路も建設中で、車より自転車の方が圧倒的に多かった時代ですからね。

 

ひとまず汽車に乗って、北京とか西安とかを通っていくんですが、シルクロードに行くと、何もないんですよね。砂漠の中で、道路さえも舗装されていなくて、牛が交通手段みたいな。

そこに村があって、建物はみんな土でできているんです。そして、食堂のようなところに入っても、水道なんかなくて、川からバケツで水を汲んできて、ばーって洗ったりしていて。電気もあるかどうか分からないくらいで、もちろん電話もなければ車などない、お世辞にも衛生的とは言えないような状態だったんですが、そこにたくさんの笑顔があるんですよ。

笑顔ですか。

そう、笑顔がたくさんあるんです。

当時の僕にとっては非常に衝撃的でしたね。水道も何もないのに、なんでこんなに楽しそうにしているの?と。

朝起きる、家族と朝ご飯を食べる、お父さんが畑に行く・耕す、お昼ご飯を食べる、もう一度畑を耕す、休憩する、もう一度耕す、暗くなる、家に帰る、夕飯を家族と食べる、眠たくなる、眠る、そしてまた日が昇って朝起きる…という、人間本来の生活をしていて、そしてそこに家族の団らんと笑顔がある。まさにこれが人のあるべき姿なのかなと。

それを目の当たりにした時に、なぜ「いい家に住みたい」とか、「いい車に乗りたい」とか、「単純にお金持ちになりたい」とか、「そういうのが勝ち組だ」とか、そんなことを思って受験勉強したり、人と競争したりしていたのかというように感じて。

ここにはそんなものが無くても、これだけの笑顔があるやんって。人の幸せって何だろうって。そう感じた時に、僕は「失うものはないんだ」って思いましたね。

幸せはお金じゃないんだっていうのを本当に実感して、僕にはもうリスクはないんだと。とにかく自分のやりたいことを突き詰めて、活き活きと毎日を過ごす。これが正しいんじゃないかと。こういう人生を歩んでいきたいなと学生ながらに思いました。

とてもインパクトがあったのですね。

ありましたね。なので、日本に戻ってきて、就職活動をするにあたっても、同じような話をしていましたよ。学生が偉そうに、「幸せとは」とか「人間本来の姿とは」みたいな(笑)。

就職活動の軸は何だったのですか?

水は高いところから低いところに…じゃないですけど、当時の日本はまだそんな風潮でもあったので、基本的には大手狙いでしたね。

業界は?

銀行と商社でしょうか。ただ、僕は外大でしたし、海外で働きたかったので、商社に行こうかなという思いはありました。性格的にも合いそうだなと思っていましたし(笑)。

それで、三井物産などからも内定が出たので、その道かなと思っていたのですが、たまたま先輩で「商社に行きたい」って言っていたのに「興銀に入った」という人がいたんですよ。

でも僕、もともと興銀のことを一切知らなくて、「なんで住商を蹴ってまでそんな無名の銀行に入ったんですか?」みたいにいろいろと聞いたら、とても良い銀行だということが分かって。それで興銀も受けたら、こちらも内定を頂けたんです。

興銀への決め手はなんだったのですか?

 

面接の段階から、「僕は商社に行きたいんです。商社の方が絶対に合っていると思うので。」みたいな話を毎回していて、それでも「銀行にも君みたいなのがいてもいいと思うのよねー。」って毎回言われて(笑)。

ゆくゆく考えると、「自分みたいな人がいっぱいいる商社と、あまりいない銀行とだと、どっちがバリューが出るだろう…」という思いになって、「浮いてしまうかもしれないけど、逆に重宝されるかもしれない」という思いで、興銀に決めました。

実際に入社されてからはいかがでしたか?

案の定、難しい話ばかりされました(笑)。

でも、いろいろな方々から可愛がって頂きましたね。キャラクターも銀行の中では変わっていた方だと思うので、仕事以外の場でも、いろいろな先輩方に声を掛けて頂いていましたし。仕事もそれなりにはやっていましたが、違う意味でも目立つタイプということもあって、評価をするのも難しかったんではないかなと思います(笑)。

興銀には何年いらしたんでしたっけ?

8年ですね。いろいろな経験もさせて頂きました。

広島支店にいる時、とあるゲームを開発しているベンチャーがあって、本部からは「ゲームなんてこの先どうなるか分からないし…」ということで渋られていたんですが、そのゲームは一大ブームを巻き起こして、会社も急成長をしていくんです。僕もそのゲームに惚れ込んでいたということもあって、ずっと稟議を通しては融資を続けていたんですよ。それで次第にメインバンクにまでなったんですけど、その後、会社が経営破綻してしまって…。

そうでしたか。