【インタビュー】株式会社ディー・エヌ・エー/小林賢治氏 - コーポレート部門は”ブースター”。いかに事業部門のエネルギーを増幅させるか(2/5ページ)
株式会社コーポレイトディレクションの史上最速マネージャー記録を打ち立て、株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)に執行役員ヒューマンリソース本部長として参画。その後、ソーシャルゲーム統括部長、Chief Game Strategy Officerを経て、現在、執行役員経営企画本部長として同社のコーポレート部門を牽引する小林賢治氏のキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
あまり既成概念にとらわれない方が良いということですよね。
そうなんですよ。だから僕、キャリアビジョンとかって、ほとんど無いんですよ。「こうじゃなきゃだめだ」って思い込んだら、逆に可能性をつぶすんじゃないかって思ってしまって。
中学選びで気づいたことも大きかったのですね。
そうですね。実際に通い始めたら「すごく良い学校だな~」って思ったので。
結果を肯定できるポジティブさというものが、そもそもの性格として備わっているということも感じますけどね。
それは本当にありがたいことで、たしかに自分の生き方の根幹かもしれないですね。
そもそものポジティブさということも大きいですよね。
そうですね。生まれが関西だったので、それが「ノリ」だと思えるかどうかっていうこともあるんですよ。 たとえば学校を一日病気で休んだりするじゃないですか。次の日学校に行くと、ノートがちょこちょこ改ざんされているんですよ(笑)。 僕が懸命にとったノートが、ちょいちょい面白いように変えられてしまっていると。でもこれを人によっては「いじめ」と捉えてしまうことだってあります。「大事なノートになんてことするんだよ」って怒ったりすることも。 でも、「お前面白いな、よくこんなこと思いつくな!」って面白がったり感心したりできるっていう面も、またあるわけですよね。
なるほど。たしかに「いじり」と「いじめ」の差って、紙一重かもしれないですね。
そうなんですよ。僕もたしか最初は怒ったんですよ。でも相手には全く悪意が無いということが分かって、「これ面白いな!」って。全てがそう上手くはいかないと思うし、ナイーブな側面を含んだ問題でもありますけど、そういったものの見方も、時には必要だなって思うんですよね。
おっしゃる通りかもしれないですね。 物事を多角的に見るということも大切にされているのですね。
そうですね。その辺りが(少し飛びますけど)大学時代に哲学を選んだ要因の一つでもありますね。 美学藝術学という学科で、芸術とか感性に対する哲学を学ぶところだったんですけど、そこでのバイブルが、カントの「判断力批判」という本だったんですね。 僕は、カントって哲学者の中で最も前向きだと思うんですよ。
美しいと何かを感じる時、それは美しいという人間の感じ方の問題(人間の側の問題)であると。厳密には少し異なるんですが、分かりやすく言うとそういうことを言っていて。 要は、受け止め方次第で人の判断は変わりますよと。人の側の判断の問題で、これを美しいと思うか、そうは思わないか、それぞれ変わってきますよね、ということなんですね。 であれば、「美しいと思った方が得だよね」というように思うようになったんですよ。
なるほど。とても通じますね。
でもそれって、たぶん僕がカントを都合よく解釈したからだと思うんですけどね(笑)。妻がカントの専門家なんですけど「あなたの解釈は間違っている」と言うので、私が言った解釈は人に言わない方が良いでしょう(笑)。
カントは人間中心的な哲学だとよく言われるんですが、美的判断などを人間の側に置くというのは、当時の哲学において画期的だったんですよね。 だからそう捉えた方が幸せなんじゃないかなって。
それは仕事の面においても言えますね。
そうなんですよ。だから仕事も「絶対にできない」って思うよりも「もしかしたらできるんじゃないかな」って思った方が良いですよね。
仕事って100%面白いっていうことは無いじゃないですか。ひょっとしたら98%くらい辛いとか、思い通りに行かなかったりとかすると思うんですよね。 でも逆に考えると、2%くらいは非常に面白かったりするわけじゃないですか。だから、98%に目を向けるか、2%に目を向けるかは、それぞれの考え方次第ですよね。
「いつかその2%が来るから」と思ってワクワク仕事をしているか、「もうこの98%やってられないな…」と思って沈みながら仕事をしているかでは、もちろん前者の方が得な生き方のように思いますよね。
本当にそうですよね。 それにしても、その辺りの原体験が中学選びにあるというのも、とても感慨深いですね。
そうなんですよ。結果的に良かったと思えることって少なくないと思うんですよね。
中学に入られてからは、熱中されたことは何かあるのですか?
これも何かの縁なんですけど、音楽部の先生が母の音大時代の同級生だったんですよ。それで「顔を出してみな」って言われて、そこまで強い意志があったわけではなかったのですが、流れに身を任せて入ろうと。 で、特に何の楽器が良いとかは無かったんですが、歯並びが良いからっていうことで、フルートをやってみたらと。
そうだったのですね。 それは特にご自身の意思というのではなく、流れに身を任せた結果ということだったのですね。
そうなんですよ。
吹奏楽にはだいぶのめり込んだのですか?
そんなに燃えたっていうほどではなかったんですけど、器用にはやれていたと思いますね。比較的早く上手くなっていったので、合ってはいたんだと思いますね。
中高一貫校だと思うので、何とも言えないと思いますが、あえて中学の思い出があるとすると、どういった場面ですか?
3年生の時にバンドに転身したんですよ。それって当時の僕からすると、精一杯のアウトロー感なんですよね(笑)。変なバンドをやっていたわけではないんですけど、公式な部活じゃないので、先生がつくわけでもないですし。そういったところに田舎者的な「格好いい感」を感じていましたね(笑)。心のどこかで「モテるんじゃないか」とか(笑)。
ボーカルがとても上手くて(才能もあって)、文化祭とかでもだいぶ話題になったんですよ。 文化祭の校長賞というのもあって、基本的にそれまでは文化的なお堅いものが選ばれ続けていたんですが、学校創設以来はじめて僕らのバンドが選ばれたんですよ。
すごいですね!型破りなことをしたわけですね。
そうなんですよ。実際に動員数もすごくて。だからアウトローなことをしていても、結果さえ出せば、こうやって評価されるんだ、みたいに思って(笑)。
そのエピソードは面白いですね(笑)。 結果的に高校の何年生までバンドは続けていたのですか?
受験勉強がはじまる前までだったので、高校2年生ですかね。
そうですか。 受験勉強が始まり、今度は大学選びだったと思うのですが、東大を選ばれたのは、ご自身の意思ですか。
そうですね。受験って結構人生において稀有な出来事だと思うんですよね。 普通、他人が何かをする時って、そこまで他の人は興味があるわけでもないじゃないですか。 たとえば「どこどこに就職が決まった」と言っても、ものすごく仲の良い友達なら別ですけど、普通は「そうなんだ」っていう程度じゃないですか。 でもなぜか受験は、たとえば良い大学に受かったりすると、親も、親戚も、先生も、すごく喜ぶじゃないですか。 自分がやったことに対して、他人が「お~」って拍手して喜んでくれる場面って、そんなにないですよね。
東京に行きたいっていうのもあり、さらにそれで皆が「お~」って言ってくれるところで考えると、やはり東大だなと。特に行きたい学部があったわけでもなくて、単純にそういう考えからですね。
そうなんですね。 関西から出たい(東京に行きたい)と思ったのは、何か理由はあったのですか?
周りの皆と、全く同じ流れになるというのは嫌だったんですよね。 結果論主義ではあるんですけど、同調主義というか、周りがやっているから自分もというのはあまり好きじゃなくて。縁は大切にするんですけどね。
なるほど。 それで狙い通り、東大にストレートで合格されていますけれども、仮に落ちてしまっていたらどうされていたのですか?
たぶん浪人していたと思いますね。
他の大学には進学されていなかったと。
そうですね。滑り止めも一校も受けていなかったです。
本当ですか!?
運も良かったんですけどね。 文系だったんですけど、世界史が苦手で。当時、有名な世界史の受験本があって、前日にホテルでそれを読んでいたんですけど、結果的に第一次世界大戦までしか読み終わらなかったんですよ。その先の問題が出たら絶対に分からない…って思いながら受験に臨んだんですけど、なんと一番難問であった第一問の記述問題が、ちょうど第一次世界大戦だったんですよ(笑)。
それは本当に運ですね(笑)。
これ昨日読んだよって(笑)。こういう幸運に巡り会えるっていうことは、絶対受かるなって思いましたよ。
素晴らしいですね。 大学では、先ほどの通り、特にこれをやろうっていうことは決めていなかったんですよね。
そうですね。東大は最初の二年間は共通して教養学部で、3年生から(成績次第ですけど)自分で学科を選ぶんですよね。
最初は何をやろうか決めていなかったんですけど、芸術の哲学を学べる学科があるということを知りました。ずっと音楽をやっていたので、とても面白そうだし、そこにしようと思ったんですが、進学に必要な点数が足りなかったんですよ。 サークルばっかりやっていて、1年生の時はものすごく成績が悪くて。底点ていって平均点である程度の点数がないと希望の学科に進めなくて、確か72点くらいだったところを、僕は当時52点とかで(笑)。言ってしまえば最低クラスですよ(笑)。 これはさすがにまずいなと思って、ちゃんと勉強し直したら、2年生の1学期に77点まで持っていったんですよ(笑)。
それもまた凄い話ですね(笑)。
いやぁ、そもそも試験をあまり受けていなかったということもあったので、全部単位を取り直して。
自らの道を自ら切り拓いてこられていますね。
結果的には(笑)。
大学4年間で最も記憶に残っていることは何ですか?
それまでは吹奏楽をやっていたんですけど、2年生の時に、オーケストラをやりたいと思って。昔の「第九」の記憶が色濃く残っていたので。 東大にはいくつもオーケストラがあったんですが、どれもあまりしっくりこなかったので、結局つくったんですよ。
オーケストラを創ったのですか。
そうなんですよ。正確には、創ろうと思っていた人間がいて、それに僕が協力をして動いていったということなんですけど、これがそこそこ上手くいって、結構良いオーケストラになったんですよ。 そこの初代指揮者だったのが山田和樹なんですよ。今、日本で一番有名な若手指揮者ですよね。
すごいですね。
音大生も何人かいて、そこから数名プロにもなってますね。 そういったインカレのオーケストラを創ったのは一つの思い出ですね。ほぼゼロから団体を創ったというのは本当に良い経験だったと思います。 何だかんだそのオーケストラはOBになってから(就職してから)もやっていたので。
素晴らしい経験ですね。 その他には何か情熱を傾けたものはありますか?
卒論も非常にまじめにやりましたね。それは自分の思想に大きな影響を残していますから。