【インタビュー】ヤフー株式会社/坂上亮介氏 - ヤフー流の企業価値の上げ方を常に意識し、未来を創造していく(2/4ページ) - Widge Media

【インタビュー】ヤフー株式会社/坂上亮介氏 - ヤフー流の企業価値の上げ方を常に意識し、未来を創造していく(2/4ページ)

記事紹介

国内インターネット企業の先駆者であり、時代とともに拡大を続けてきたヤフー株式会社。再び大胆な若返りを図った経営陣の一角として、CFOのバトンを受け取った坂上亮介氏。
モバイルペイメントを含む金融事業の本格展開、グループ内の資本再編など、大きな転換期を牽引する同氏のキャリアストーリーを伺った。

※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

大学時代はどういった学生でしたか?

英語に触れる機会が多かったように思いますね。比較的英語に力を入れている大学でもあるので、短期留学とホームステイが組み合わさったようなカリキュラムがあって、それに3回くらい参加していました。

積極的に参加されていたのですね。

英語の堪能な帰国子女が多かったということもありましたし、英語くらいは…という思いもありましたね(笑)。

あとは、広告文化研究会というところに入って、いろいろな活動をしていました。

どういった活動だったのですか?

たとえば、学園祭で開催するコンサートを企画したりして。 実際にチケットを売ったり、スポンサーを募ったり、運営全体を回すんですけど、今考えるとメディアっぽいことをしていたなと思いますよ(笑)。入学してから卒業するまでやっていましたね。

就職活動自体は、比較的厳しい時代だったかと。

そうですね、厳しい方だったと思います。98年組なので。

もともとは、どういった先を希望されていたのですか?

経済学部だったということもありますが、親族一同みんな金融機関ということもあって、はじめは銀行がイメージとしては強かったですね。

金融機関も大変な時期だったかと思いますが。

たしかに。山一證券とか長銀の倒産があった頃ですからね。採用って結局は東京優先じゃないですか。景気の問題もあって、名古屋では採用をしないという結果になった先は多かったですね。

東京に出てきて就職活動というお考えは無かったのですか?

無かったですね。大阪でというのはありましたけど。キーエンスさんを受けたり、実はソフトバンクも大阪で受けましたね(笑)。新幹線代がもったいないので、1日で受けに行った記憶があります。

 

結果はどうだったのですか?

キーエンスさんからは内定を頂いて、ソフトバンクからは連絡が来なかったので不合格だったかと(笑)。 キーエンスさんからはだいぶ早い時期に内定を頂いたんですよ。結果的にタイミングが合わなくて、他の面接を優先してしまったんですが…。

そうだったのですね。比較的積極的に就職活動をされたかと思いますが、最終的に就職をされたのは、CSKさんですよね?

そうですね。銀行とか商社とか、最終段階まで進んでいた企業が何社かあったのですが、最終的にはCSKにお世話になりたいと思ったんですよね。

理由としてはどういった面があったのですか?

もともとパソコンが好きだったということもありましたし、当時、エンジニアというのは「手に職」というイメージがあったので、何社かは近しい業界の会社を受けていたんですよ。 その中で、人事の方とのフィーリングが合って、「良い会社だな」と感じましたね。 でも、本当は落ちていたかもしれないんです(笑)。

どういうことですか?

最終面接が終わった後に、何の自信があったか分からないんですが、「なかなか電話が掛かってこないんですけど」って。「どうなってますか?」みたいに人事に電話して(笑)。

それはすごいエピソードですね(笑)。

「他の会社の選考もあるので、教えて頂けませんか?」というような話をしたら、改めて電話が掛かってきて、内定でした(笑)。

なかなか無い話ですね。

もともと他社からも内定がいくつか出ていたということもあって、おそらく「内定を出してもうちに来ないだろう」という状態だったと思うんです。でも、電話も掛かってくるし、やる気があるんだなというように映って、内定に進んだというような感じだと思いますね(笑)。 あとから人事の方に聞いたら、「あんなに言ってくるやつも珍しいから、とりあえず内定を出しておいた」って言われましたよ(笑)。

CSKさんから内定が出たタイミングで、他社の選考は全て辞退ですか?

そうですね。「自分から電話しちゃったしな…」と思って(笑)。

当時のCSKさんは、同期で何名くらいいらっしゃったのですか?

結構いましたね。300名以上はいたと思います。

最初の配属はどちらだったのですか?

名古屋(中部事業部)だったんですよ(笑)。何を勘違いされたか、僕がもともと名古屋出身だと思われていたようで、「おまえ、名古屋に帰りたいんだろ?」みたいな(笑)。一言も言ってないんですけどね(笑)。たまたま大学が名古屋だったというだけで。  

 

そんなことがあったのですね(笑)。名古屋に配属されて、どういった業務からのスタートだったのですか?

SIerってクライアント先で開発することが多いじゃないですか。なので、名古屋の事務所に行って、1時間ほどレクチャーを受けて、「ここには机は無いぞ」と言われて、そのままクライアント先に連れていかれ、そこに席がある…みたいな流れでした(笑)。 事務所の滞在時間は、ほぼ半日みたいな感じでしたよ(笑)。

基本的には自宅からクライアント先に直行直帰ということだったのですね。

そうですね。当時、2000年問題というのがあって、その需要のピークだったんですよ。最初の仕事はその対応でしたね。今でも覚えているのが、順番に1年ずつ繰り上げながらテストをしろと。ひたすら2050年くらいまで日数を変えながらテストをするという…。 半年くらいやっていたんですが、だんだん「こんな仕事をするために入社したんじゃないのに…」みたいに思っちゃって(笑)。そもそも2050年にこのシステム動いているの?みたいな(笑)。

徐々にフラストレーションが溜まっていったのですね(笑)。

そうなんですよ。で、その後に、OJTでお世話になっていたマネージャーを飛ばして、直接人事宛に「この仕事を続けていくのはしんどいので、他の部署に移してください」って直談判しちゃって。その後にマネージャーから「そんなに嫌なの?」って悲しい顔をされてしまって、「こういう話は、ちゃんと順番があるんだ」って分かったんですよ。

社会人としてのマナーということですね。

そうなんです。当時は、ちょっとでも不満があったら、直接人事に言うという…。本当に最低な新人だったと思いますね(笑)。

 

自分の意見は、結構はっきりと口に出されていたのですね。

だいぶ積極的に言っていたと思いますね。なんというか、焦りだったんでしょうかね。

焦りですか?

やはり新人の頃って、まだ同期で連絡を密に取り合う時期なので、それぞれ今どんな仕事をしているかって比べるじゃないですか。その中で「このままずっとこの仕事をしていたら、キャリアとしてまずいな…」って思っていたんだと思います。

たしかにそういう気持ちになるのも、何となく理解ができますね。その後はどうされたのですか?

当然のごとく、2年目に入る時に放り出されまして…(笑)。同じように文句を言っていた同期がいて、その彼と一緒に、会議室で1ヶ月くらい何もすることなく、ポツンとしていましたね。