【インタビュー】ヤフー株式会社/坂上亮介氏 - ヤフー流の企業価値の上げ方を常に意識し、未来を創造していく(3/4ページ) - Widge Media

【インタビュー】ヤフー株式会社/坂上亮介氏 - ヤフー流の企業価値の上げ方を常に意識し、未来を創造していく(3/4ページ)

記事紹介

国内インターネット企業の先駆者であり、時代とともに拡大を続けてきたヤフー株式会社。再び大胆な若返りを図った経営陣の一角として、CFOのバトンを受け取った坂上亮介氏。
モバイルペイメントを含む金融事業の本格展開、グループ内の資本再編など、大きな転換期を牽引する同氏のキャリアストーリーを伺った。

※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

それは、人事的には何を意図されていたのでしょうか?

今思えば、辞めなさいっていうことだったんじゃないですかね(笑)。でも、そうしたら急に「東京に行くか?」って言われて。

そこで東京からの呼び出しがあったのですね。

いわゆるトラブルプロジェクトが非常に多い時代だったので、「そんなに文句を言うなら東京に連れて行ってトラブル対応の下働きでもさせてしまえ」っていう感じだったんじゃないですかね(笑)。そんな感じで、2人とも東京へ放り込まれた感じでした(笑)。

比較的そういった案件が多かったのですね。

基本的には、そういったプロジェクトには、社内のエース格の人達が集まってきて、火消しをしていくんですよ。その中に、訳も分からず入ってきた2年目二人…というような構図でしたね。

逆に、そのような優秀な方々と一緒に仕事をしていくことで、いろいろと勉強になったこともあったのでは?

本当にそうでしたね。5~6年そのような環境でやっていましたが、大変なプロジェクトばかりなので、逆にどんどん吸収できているなとか、成長しているなという実感がとてもありましたね。

徐々にチームを率いる立場にもなっていくと思います。

そうですね。20代後半になってくると、(メンバーを抱えて)自らが責任者として遂行するようになりましたし、コンサル会社や他のベンダーとコラボしながら動いたりとか、そういった動き方になってきましたね。

大きなプロジェクトにもなると、結構な人数だったと思いますが。

たしかに、大きいプロジェクトにもなると、1000名近いものもありましたね。

 

5~6年そういった立場で業務を行い、その後はどういった流れになるのですか?

入社して7年ほどエンジニアとしてキャリアを積んで、その後は経営企画部門(名称は総合企画部)に公募で異動になりました。

自ら希望されたのですね。

クライアントに真摯に向き合っていると、実際に中の経営企画などに携わりたくなるんですよね。ちょうどその頃、他社から「うちに来ないか」っていう誘いも増えてきたのですが、転職をするのであれば、その前にとことん自社の経営に携わりたいと思って。自ら異動願いを出したんです。

そうだったのですね。異動の希望も多そうですね。

たしかに、いろいろな人が希望を出していたと思いますね。なので、運良く選抜して頂いたという格好かと。それにしても、初めて自分の会社のオフィスで勤務をするということがとても新鮮でした(笑)。

たしかにそうですよね(笑)。環境はだいぶ変わったかと思いますが。

だいぶ変わりましたね(笑)。いきなり役員部屋の隣でしたから(笑)。 会長や社長の本当に近くで。ただでさえ、一般の場所で働いたこともないのに、いきなりこの環境かという思いはありましたよ(笑)。

エンジニアから経営企画部門に移ったうえでのギャップも相当あったのでは?

20代の頃は、お客さんにいろいろと学ばせて頂いたのですが、改めて社内の立場として、ビジネススキルのベースが低かったということを痛感しましたね。当時の課長に徹底的に叩き込まれましたよ(笑)。電話の取り方一つとっても、何度も指摘を受けて…。

 

コミュニケーションの取り方からということだったのですね。

そうですね。その他にも、当然ながら提出する資料などは何度も何度も作り直したり。あえて指摘はされず、「読み直してみろ」っていうやつですね(笑)。「何だろう…、完璧だと思ったのに…」みたいな感じで、ひたすら考えながらの毎日でした(笑)。

とても鍛えられる環境だったのですね(笑)。

本当にそうでしたね。それと、持株会社でもあったので、グループ会社の社長や役員の方々と接する機会が多かったというのも、とても勉強になりましたね。担当会社の社長に会いに行って、いろいろとヒアリングをしたり、こちら側の考えをお伝えしたり。

グループ会社は当時、何社ぐらいだったのですか。

30社はあったと思いますね。しばしばM&Aもやっていたので、それに伴う諸々の対応などもベースになっていましたね。

一気に環境が変わりましたね。結果的に異動は良かったということですね。

そうですね。当時は「このままエンジニアとしてやっていけるのだろうか…」という思いもありましたからね。インターネットが当たり前になって、技術革新はどんどん進む。40歳・45歳となっていく中、テクノロジーの変化に果たしてついていくことできるのかって。どちらかというと、経理や経営企画という仕事は普遍だったりするので、結果的にその道に進んで良かったなという思いはあります。

坂上さんのようなお立場の方が、そういったお話をされると、現在コーポレートに所属されている方々にとっても、とても励みになると思います。

たまに新卒で配属された人たちに言うのは、ヒエラルキーを考えた際、例えばエンジニアが5000人いて、そこでトップになるのは5000分の1だけど、管理系というのは500人もいないから、500分の1でトップになれると考えたら、偉くなる確率は高いよと(笑)。

確かにおっしゃる通りですね(笑)。

 

まぁ、確率の問題ではないということはありますけど、経験が蓄積されていけば、その分キャリアになっていきますし、汎用性もありますしね。

本当にそうですね。総合企画室は何年いらしたのですか?

3年半ですね。

それが退職のタイミングですか。

そうですね。

なぜ退職をお考えになったのですか?

当時、会社として不動産投資なども始めていたんですね。本業ではないものの儲かるからという判断だったと思うんですが。 ただ、当時リーマンショックが起こる前から、何となく環境的に怪しくなってきていて、このままで大丈夫なんだろうか…という思いがあったんですよ。

まさにそれが現実になると

そうですね。まさにそうなってしまいました。たぶん相当な不良資産になってしまうというのは、少し前から予見されたりていて…。

その感覚は間違っていなかったですね。

まさにそういった方面を担当していたからかもしれないですね。 そうこうしているうちに、総合企画部の体制変更などもあって、新しい環境に進もうかなと。

 

退職の意向を切り出した時、社内はどうでしたか?

いやぁ、大変でしたね(笑)。 軽く喫煙所へ行って「辞めようと思うんですけど」と上司に言ったら、「はあ?」となって、いろいろな方々から電話がかかってきて、「おまえ、ちょっと来い」って。

やはり皆さん、強く慰留をしますよね。

役員全員から飲みに連れていかれたり、人事担当役員に缶詰めにされたりと、後々聞くと前代未聞だったらしいですけど、とてもありがたい話ですよね。 今でも会える間柄なので、本当に恵まれているなと思いますよ。

様々な方々から信頼をされていたということですね。その頃、既にヤフーさんへの入社を決まられていたのですか?

そうですね。いくつか声をかけて頂いていた先もあったのですが、ほぼヤフーで決めていました。