【インタビュー】株式会社サイバーエージェント/曽山哲人氏 - 才能は、発掘するのではなく開花させる。才能開花の方程式をつくりたい。(2/5ページ) - Widge Media

【インタビュー】株式会社サイバーエージェント/曽山哲人氏 - 才能は、発掘するのではなく開花させる。才能開花の方程式をつくりたい。(2/5ページ)

記事紹介

「21世紀を代表する会社を創る」をビジョンに掲げ、AbemaTVの運営や、国内トップシェアを誇るインターネット広告事業を展開する株式会社サイバーエージェント
時流をとらえた数々のサービスと同時に、独自の強固な組織運営が注目される同社において、そのHR領域を牽引する取締役・曽山哲人氏のキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

目標は達成されましたか?

残念ながら、僕の在籍時には1部まで上がれなかったんです。

3年で副キャプテン、4年でキャプテンをやっていたんですけど、すごく悔しかったですね。そこからコーチ制度を取り入れようと提案したんです。

4つ上の先輩に外部コーチを依頼して、僕は卒業後に副コーチに就任しました。社会人1年目の時は、仕事をしながら、ランチタイムに分析をするといったことをしていました。

曽山さんのリーダーシップは随所に現れていますね。

単に目立ちたがり屋なんですよ。高校の中でも結局ダンス部をつくってリーダーをやったり、中学高校も、生徒会に入ったり。

そういった星のもとに生まれてきているような雰囲気がありますよね。

やりたがりなだけです(笑)。

ラクロス部の際も、1年生の頃からいろいろと手がけていたのですか?

そうですね。1年生の時は集金係として取りまとめをして、2年生では学生連盟のスポーツ団体で広報委員をやっていました。3年生で広報委員長になってくれと言われたので、いろいろと動いていたら、いつの間にか130校くらいを束ねていましたね。

非常に充実されていますね。

男女一緒の団体だったので、友達は増えましたし、今でも他大学の友人との付き合いや、当時の友人からの繋がりで仕事の依頼を受けたりすることもあって、公私に渡って関わりがありますね。

ちなみに、コーチ制度を導入された後は、どうなられたのですか?

導入したその年に1部にあがりました!

すごい!しっかりと結果を出されたのですね。

もともと後輩たちはしっかりとした能力があたので、客観視する人が入り、ちゃんと指示をしてチーム編成をすると、自然と結果が出ましたね。自分自身にとっても大きな学びになりました。

学生生活を経て、新卒では伊勢丹さんに入社されています。どのような就職活動をされたのでしょうか。

まず社会に出て、「すごい組織をつくりたい」という想いがありました。やっぱりラクロス部で1部にあがれなかったという学びが大きく影響していて。

「すごい組織」ですか。

そうですね。当時「すごい組織」っていうのは、業界ナンバーワンの会社だろうと考えて、いろいろと受けました。

伊勢丹は、衣食住の衣に当たりますよね。ファッションは非常にインパクトがありますし、しっかりとした考えを持った先輩方に魅力も感じたので、最終的に入社を決めました。

伊勢丹さんではどんなお仕事を?

最初は紳士服のスーパーメンズ(大きなサイズ)部門に配属になったんですが、同時にEコマースのプロジェクトにもアサインされたんです。しばらく兼務をしていましたね。

まだECという言葉すら定着していない時代ですよね。

そうですね。当時はバブル崩壊後で、他社さんも部門はあれど、ほとんどやっていなかったように記憶しています。

伊勢丹さんを1年で退職されていますが、当時結構な覚悟だったのではないですか。

おっしゃる通りですね。自分の中ではしっかりと覚悟を決めて退職したつもりです。

プロジェクトにアサインされたのがきっかけでしたが、ネット業界は間違いなく伸びるという思いになりました。この業界で全力を注ぎたいという強い思いが出てきたんです。

そこからサイバーエージェントさんに入社された決め手はなんだったのでしょうか。

決め手は正直なところ、一番最初に内定が出たということです(笑)。

ちょうど丸1年で伊勢丹を退職して、その後、転職雑誌で見つけてエントリーしたんです。そうしたら、翌日に面接になり、トントン拍子に進んで2週間後には入社していました。

2週間後に入社ですか。その意思決定の早さもフィットされていた要因なのでしょうね。

確かにそうですね。お互い意思決定は早かったと思います。

当時は何名くらいの規模だったのでしょうか。

20名くらいですかね。社員番号が27番です。

最初はどのような仕事からスタートされたのですか。

営業です。電話で新規のアポイントを取り、アポが取れたらインターネット広告を提案していました。

でも最初はアポが全然取れなくて・・・・・・。2日目くらいに「曽山さん何件電話しました?」って聞かれたので、「いや、まだ全然できてないです」と答えたんです。そうしたら、「全然駄目ですね。1日100件は電話してください。」と言われて。

営業の基本ということですね。とにかく最初は数をこなさないとと。

そうなんです。目線が分からなかったので、「なるほど、そういうものなのか」と思いました。そこから必死に電話をしましたね。

営業は何年くらいされていたのでしょうか。

広告営業はトータル6年です。その間、マネージャーになり、5年目で副統括、6年目で営業の責任者である統括をやりました。そのときにはもう営業だけで150名くらいになっていました。

自らを律して、実践される姿はさすがですね。段階を踏んでいく過程で、見える景色も変わってきたと思います。その中で意識されてきたことはどのような変化がありましたか。

僕はマネジメントを通じて自分が成長したと思っています。なので、マネージャーとしての経験は大きかったですね。

プレーヤーの頃は、自分だけ厳しくすれば一定の結果が出せることがわかりました。とにかく自分を追い込めば、その分結果が出ると。ところが、メンバーが増え、チームのマネジメントをしなければならない立場になっていくにつれ、僕は何回も失敗をしてしまって……。

失敗ですか。

はい。自分の成功体験であったり、自分流のスタイルを押し付けるという、ダメなマネージャーのパターンになってしまったんです。

結局、自分とは合わない部下が他の部署に行ったら活躍するという例を何度も見て、「これは自分が問題だ」とやっと気付くことができました。

そういった経験もあったのですね。

そんな時に、たまたまコーチングというものに出会って、「聞き出す」ということを学びました。それをやってから、すごく組織が回るようになったんです。

まずは相手の気持ちを聞き出すということですね。

おっしゃる通りです。僕は本人の意思をどれだけ引き出せるか、引き出せばあとは本人が責任持ってやってくれると思っています。どれだけ言いやすい関係性を作り、どれだけ本音を言ってもらえるか、組織づくりではそこが大事だということを学びましたね。

それは今でも生きていることですか。

まさに今の人事のスタイルでも、なるべくそれを尊重したいと思っていますね。

指示命令型ではなくて、みんながやりたいことをやり、でも先輩や上司にも考えがあるので、お互いぶつけていって、良い方向に持っていくというのが健全な組織だと。

営業から人事への抜擢、お気持ちはいかがでしたか?

想像すらしていなかったので、本当にびっくりしましたね。

2005年のことで、藤田から直接言われました。ただ、営業の副統括をしている時に、藤田から、中途や新卒の若手育成プログラムを任されて、チェックリストの作成やトレーナー制度の構築、会食などを実施して、かなり定着率や成長角度が上がったんです。僕の中でもそれは成功体験になっていて。なので、迷いなく「やります!」と言いました。

その当時は会社全体で何名くらいの組織だったのでしょうか?

500~600名ほどですね。当時は社員がどんどん辞めていく中、会社の基盤づくりをしようという時期で、人事が本当に大変な状況だったんです。年商が400億円ほどで、退職率30%くらいが続いていて……。

私が人事に移る少し前に、役員が人事制度の強化として、新規事業プランコンテストや社内異動の仕組み、家賃補助(二駅ルール)などを策定していました。でも運用がうまくいっていない制度も多かったんですね。

なので、それをちゃんと実行する専門チームが必要だと、意思決定したようで、それであれば「どの部門にも大体顔が利く、営業のトップの曽山がいいかもね」となったようです。

そういう流れだったわけですね。当時、社内(人事以外)でも離職率に対する課題意識はあったのでしょうか。

売上は伸びているのに、採用コストと退職の損失が大きかったので「離職率を下げなきゃだめだ」という認識はありました。