【インタビュー】グリー株式会社/秋山仁氏 - 個人戦からチーム戦へ。チームで戦うために、自らが常に成長し続けたいと思った(1/4ページ)
メリルリンチ証券・投資銀行部門のディレクターとして活躍をしている中、急成長中のグリー株式会社に出会い参画を決意。その後、会社の環境が大きく変化していく中、経営企画部長、コーポレート本部長、取締役執行役員常務と、重責を担いながら会社を牽引してきた秋山仁氏に、そのキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
本日は、貴重なお時間を頂き、誠にありがとうございます。お話を伺うことを楽しみに参りました。
こちらこそ、よろしくお願いします。これまでの皆さんも、だいぶ赤裸々に語っていらっしゃるので、お手柔らかにお願いします(笑)。
大変恐縮でございます(笑)。簡単に幼少期から遡ってお話をお伺いしているのですが、そもそも秋山さんはどちらのご出身になりますでしょうか?
東京の小平ですね。商店街に住んでいました(笑)。実家が、寿司屋さんというか弁当屋さんをしていたんです。
店頭売りもしていたんですけど、市役所や日立などの大きな工場があったので、仕出し弁当もしていましたね。
グリー株式会社 取締役上級執行役員 秋山仁氏
お父さんは脱サラをしてお店を立ち上げたのですか?
15歳からお米屋さんに丁稚奉公していて。だから15歳からずっとお米関連の仕事をしていました。でも15年くらい前、父が60歳になった時に、バッと売って、伊豆の方に隠居しました(笑)。引き際は鮮やかでしたね。
子どもの頃のエピソードを紹介して頂けますか?
車が好きで年長くらいからディーラーに通って、パンフレットをもらってはスペックとか調べまくっていましたね(笑)。デザインももちろん好きだったんですけど、カタログには色々な数字が並んでるじゃないですか。そういうのが結構好きだったんですよね(笑)。ちょうど世の中的にも、スーパーカーブームっていうのもあったので。
他には、ちょうど3年生・4年生の頃に、すごく将棋にはまりましたね。
将棋ですか。
株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
近所の将棋クラブみたいなのに行き始めたらすごく面白くなっちゃって(笑)。3年生の時に、「大山康晴名人」と一緒に行く、お座敷列車将棋の旅みたいなのがあって、「どうしても行かせてほしい」って、子供ながらに懇願して無理矢理行かせてもらいましたね(笑)。
はまってしまうと、もう「これだけ」っていう風になってしまう性分でしたね(笑)。
「勉強」についてはどうですか。
両親は教育という雰囲気でもなかったのですが、たまたまその時に好きになった女の子が塾に行くと言い出したので、僕も塾に通いたいなって思って一緒に通い始めたんですよ(笑)。それが4年生の頃ですね。でも、その子がテストで100番目くらいで受かって、僕は906番目。やばい!格好悪い!と思って猛烈に勉強した記憶がありますね。
それで受験をして、名門開成中学に行かれてますね。何か没頭していたことなどありましたか?
中学時代はパソコンにはまっていましたね。実家が商売をしていたので、「パソコンを買ってくれたら俺が給与計算をしてあげるから!」みたいなことを言って、なんとか買ってもらって…(笑)。
当時アルバイトさんやパートさんなど、20~30人いらしたんですけど、その方たちの給与計算って、時給も人によって違うし、母が結構な時間をかけてタイムカードとにらめっこしながらやっていたんですね。それを自動的に計算できるように、簡易的ですけど仕上げてあげました。
それは素晴らしいですね。中学高校ではどんなことをされていたのですか?
パソコンゲームの(今でいうロールプレイングとかアドベンチャーゲームとかの)走りの頃で、友だちとパソコン倶楽部みたいなものをつくって、学外の人から会費をとって運営していました。
当時、すごくうまくいって雑誌の取材もしてもらったのですが、学校で取材を受けたらバレまして。「そんなことやってるなら、学校を辞めるかどっちかにしろ!」みたいに怒られて中3でその活動をやめました。(笑)あとは普通の男子高校生として女の子を追っかけていました。
大学は東大に進まれていますが、「これを学びたい」というものがあったのですか?
それが全く無かったんですよ。それこそ法学部か経済学部かどうしようかって、500円玉で決めちゃったくらいなので(笑)。本当にポリシーが無かったんですよね。
大学1、2年生の時はありがちなテニスサークルで遊んで(笑)。3年生になるときに、1年間休学してアメリカへ行きました。高校1年生の夏休みにロサンゼルスに行く機会があり強い影響を受けまして、「向こうの高校に転校する!」って言い出したんですが、当然「お前、何考えてるんだ!」みたいな話になり、説得されて断念しました(笑)。それで、大学の時にようやく行ったというわけです。
アメリカに行ったことで、何か大きな気付きなどありましたか?
日本のことを知らないなと思いました。現地の人に「日本のことを教えてほしい」とか、「そもそも何でここにいるんだ」とか聞かれるんですけど、ほとんど答えられないんですよ。それこそ、猛烈に受験勉強もして、東大に入って…という思いではあったのですが、根本的なことに対してしっかりとした答えを持てていなかった。それを強烈に感じましたね。
その後どんな影響がご自身にありましたか?
帰国後、日本の文化を知りたいと思いすぐに茶道を始めました。自分の中では大きなきっかけだったかもしれないですね。日本を元気にとか、日本の会社をグローバルにとか、今自分の持っている思いの原点のような気がします。
その後の就職活動にも、影響しましたか?
そうですね。やはり影響していると思います。外資系でゴールドマンやJPモルガン。そして商社は三菱商事、三井物産などを志望していました。その中で最終的に三菱商事を選んだのは、やっぱり日本の会社で、海外を含めて成長してみたいという思いからですね。同じ商社の中でも、三菱商事がフィーリングが合いました。
三菱商事に就職され、どの辺りの業務を担当されていたのですか?
主には、機械グループの職能部門(いわゆるコーポレート部門)でした。当時、コーポレートって聞いた時には、そもそも事業側についてるコーポレートなんていう想像はしていなくて、プロジェクトファイナンスとか為替のディーリングとかを想像していたので、無知のまま希望をだしていました(笑)。
三菱商事には計4年半ほどの在籍でしたか?
そうですね。そのうち1年はタイに行っていたので、東京が3年半のタイが1年ですね。三菱商事とレンタルのニッケンとのジョイントベンチャーで建設機械のレンタル会社に1年出向していました。
どういった業務をされていたのですか?
3年目の頃だったので、「投資先に出て、見聞を広げてこい!」という趣旨だったと思うのですが、ちょうど97年に、タイの通貨危機があったんですよ。お客さんが建設会社なので、どんどん潰れちゃって…。途中から債権回収をするのが仕事になっていました。債権回収できる場合もあれば、建設機械を回収してくるとか。「お金はいいから機械だけは返して」みたいな。それこそオーナーから車をもらってくるとか…。全く持って想定外でしたね(笑)。今となっては良い経験になったなとは思いますけど(笑)。