【インタビュー】サイボウズ株式会社/山田理氏 - 会社は人を幸せにするツール。サイボウズを通じて、社会を変えていきたい(1/5ページ)
日本興業銀行にて市場部門等を経験した後、サイボウズ株式会社にCFOとして参画。同社のIPOならびに史上最短での東証2部上場を経由し東証一部上場までを牽引。その後、取締役副社長・サイボウズUSA社長を兼務し(自ら米国に赴任し)、グローバル事業拡大も先導している山田理氏に、そのキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
本日は、日本滞在中の限られた時間を頂き、本当にありがとうございます。今回は日本にどのくらいいらっしゃるのですか?
2週間くらいですかね。
その間、スケジュールはぎゅうぎゅうに詰まっていると聞いています。
そうですね(笑)。やはり日本でしかできないこともありますから。
山田さんのインタビュー記事は、これまでもいくつか拝見させて頂いておりますが、今回はだいぶ山田さん個人にフォーカスを当ててお聞きできたらと思っております。
どうぞ(笑)。素のままお話しますので。
サイボウズ株式会社 取締役副社長 兼 サイボウズUSA社長 山田理氏
ありがとうございます。山田さんは、もともとご出身は関西ですか?
はい。生まれも育ちも大阪ですね。
小さい頃からずっと野球ばかりやっていて。小学校・中学校・高校までですかね。昔ながらの野球一筋という少年でした。丸坊主で(笑)。
そうなのですね。野球は小学校何年生の頃から始められたのですか?
小学校3年生だったと思いますね。
親御さんの影響ではじめられたのですか?
当時サッカーがまだあまり流行っていなかったということもありますし、父が野球好きだったというのもありますかね。
世代的にはどうだったのですか?
それでいうと、ちょうど同じ世代なのは、PL学園のKKコンビなんですよ。
あの代なのですね。
株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之
そうなんです。まさに同じ学年で。彼らと同じく僕も大阪でやっていて。僕らの中学校も野球が強くて、桑田さんの中学校とはよく練習試合もやったりしたんですよ。
僕の唯一の自慢は桑田さんからヒットを打ったことですね(笑)。で、その後ファーストで牽制アウトになるという…(笑)。
それ、ネタになっていますね(笑)。野球は誰から言われたわけでもなく、何となく始められたのですか?
当時サッカーがまだあまり流行っていなかったということもありますし、父が野球好きだったというのもありますかね。でも性格的なことをいうと、当時はあまり合わなかったかもしれないです。
なぜですか?
野球って封建的じゃないですか。やれと言われたらやるというか、うさぎ跳びでベースをグルグル回れって言われれば、回るわけですよ。当時はまだそういった風潮が色濃くありましたからね。上から言われたことを必ずやらなければいけないという…。
そういうのは僕、向いていないんですよ。とても嫌で。嫌なんだけれども辞めるのも嫌で。
ずっと「なんでこれをやらないといけないんだろう…」というのもありましたね。
上から抑えられるというのが…ということですか?
そうですね。なんというか、僕の性格なんでしょうかね。
幼い頃から、やんちゃというか、変わったことをする子供でもあったと思うんですよ。
幼稚園の時に補助輪のついた自転車に乗って、二つか三つ先の駅までダーッと自転車をこいでいくんですけど、それで帰ることができなくなって、夜も暗くなって、母が捜索願いを出す…みたいな(笑)。
それで僕は普通の顔して警察に行って、「家はここ」のような感じで送ってもらって…。家に帰ったら母が泣いている…みたいな(笑)。「なんでお母ちゃん泣いてんの?」と。そういうのをずっと繰り返していましたね(笑)。
とても自由な子だったのですね(笑)。
とにかく縛られるのが嫌いだったんですよね。それでも野球は続けました。そのうち分かってくれる先輩は分かってくれるようになりましたしね。
高校ももちろん野球ですか。
そうですね。僕らが中学3年生の時に、何十年振りかに甲子園に出場した公立高校があったんですよ。PL学園とかを大逆転して甲子園に出たので「ミラクル」なんて言われていて。そこでどうしても野球がやりたくて、入学したんですよね。
でも入った瞬間に、1年生の夏の甲子園で、同じ大阪、同じ1年生のKKコンビが現れるじゃないですか。1年生のエースと4番ですよ。それで全国優勝しちゃうんですよ。その瞬間から僕の甲子園の夢は断たれるわけですよね(笑)。この人達と同じ大阪大会で、これから3年間ずっと勝負をしなければならないのかと(笑)。
たしかにそうですね(笑)。
そうは言いながらも負けず嫌いなところもあったので、それなりに練習はしてきたんですよ。それで自分が3年生になって最後の夏ですよね。KKコンビを擁するPL学園に勝つんだと意気込んでいたんですが、無名の高校にまさかの1回戦で大逆転負けをしてしまうんですよ。
「ミラクル」と言われて非常に注目をされていた高校が、まさかのミラクルを起こされて1回戦で負けてしまうという…。
そうだったのですか。
負けた瞬間、本当に涙が止まらなくて。気持ち的に半分は甲子園を諦めていましたけど、それでも泣いて泣いて…。もっと出来たことあっただろうって。中途半端に練習してきたからだって。
今でも色濃く胸に残る敗戦だったということですね。
もう、こういう中途半端なことは二度としたくないなって思いましたね。だからこそ、大学に入ってから何でもいいから最後まで諦めずにやる。諦めて泣くくらいなら、とことんやり切ろうって思ったんです。
そういう思いで大学に進まれたのですね。野球も高校までですか。
そうですね。大学は大阪外国語大学に進んだんですけど、そもそも女性が7割くらいで、野球部も強く無かったので。
大阪外大に進学された理由は何かあるのですか?
高校野球が終わった後に、1年間、アメリカでホームステイしているんですよ。
それで戻ってきて、半年間で受験勉強をして。一年も遅れているじゃないですか。現役で入らないといけないと思っていたので、現役で…、英語で…、と探していって。家にお金も無かったので国立に絞って、国立で英語で入れるところ…っていうと外大しかなかったんですよ。
アメリカに行かれたというのは、ご自身の意思ですか?
父が、「若いうちに海外には行っておいた方がいいぞ」とよく言っていたので、その影響が大きかったかもしれないですね。
でも、普通は受験勉強に被らないように2年生の頃に行くじゃないですか。そうしたら学校の先生が「3年生から行くのもあんねん」って言うので、「本当にあるの?3年生で行っていいの?」というようになって、それで、もうその時に「行こう」って決めたんですよ。
ただ、父に話したらやはり大反対ですよね(笑)。「3年生で行くってどういうことやねん!」て。「お前、受験どうすんねん!」「今までも勉強してないのに、ここから1年遅れて、そしてさらにあと半年でどうやって大学に入んねん!」って(笑)。
「行くって決めたから行く!」と言っても、「誰のお金で行くと思ってんねん!」って、ものすごく怒られて、売り言葉に買い言葉で、大ゲンカした思い出はあります(笑)。