早稲田大学ビジネススクール教授 平野正雄氏(1/3ページ) - Widge Media

早稲田大学ビジネススクール教授 平野正雄氏(1/3ページ)

記事紹介

投資家・コンサルタントの立場から見た理想のCFO像など、様々な見解をお話し頂く専門特集。
マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長、カーライル・ジャパン共同代表を経て、現在、早稲田大学ビジネススクール教授を務める平野正雄氏に、これまでの経験の中で感じる率直な思いを伺った。

※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

このたびは、貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます。

なんでもお話しますので、気楽にご質問ください。

誠にありがとうございます。ではまず、これは周知の通りかと思いますが、簡単に、これまでのご経歴などをお聞かせいただけますでしょうか。

はい。もともとは理系のバックグラウンドでして、工学部の大学院を出ています。初めは日揮という会社に勤務し、プラントエンジニアリングの仕事をしていました。在籍中にスタンフォード大学のエンジニアリングスクールに海外留学をする機会を与えてもらい、1984~1986年の2年間ほど学んだのですが、そこが私のキャリアの大きな起点になっていると思います。

その頃の日本はまさにジャパンNo.1と言われて、国際競争力、産業競争力など単純な指標で見るとピークに近かった時期ですよね。1984年にはまさにプラザ合意がありました。米国が日本に対して円高誘導、内需拡大の要求をし、為替介入をしてきて、極端な円安になる。金融緩和によって株式や不動産のバブルが起こり、その後にバブル崩壊となります。

そのような時期にアメリカに留学をしていたので、為替の大きな変動、日本の経済が活性化していく大きな変動を目の当たりにし、経済で何が起きているのだろう、日本の競争力が高いのはなぜなのだろうと。エンジニアリングから、エコノミーに興味を持ち始めました。

そのような時代背景が平野さんを経済の道へと導いたのですね。

ちょうどアメリカにいた時に、企業にアドバイスをするという「コンサルタント」という仕事を知ることになり、マッキンゼー&カンパニーという会社も知りました。そしてオファーをいただいたのですが、すぐ踏ん切りが付かなかったこともあり、一旦帰国し、一年ほど日揮で働いてから、87年の暮れに転職をしました。

早稲田大学ビジネススクール教授 平野正雄氏

コンサルタントとして働かれていた時代、バブルが膨れ、そして崩壊と、時代の変化がものすごく大きかったのではないでしょうか。

87年から90年はまさに日本がバブルを上り詰めていくという時期で、当時の日本企業は良くも悪くも自信に満ち溢れていましたね。企業の積極投資を間接金融が支える時代でした。ですから、まだ「株主価値」「コーポレートガバナンス」など、言葉はあっても、経営の概念としてほとんど実態はなく、経営の重要指標は、とにかくどれだけ成長させられるかという強烈な「成長志向」「拡大志向」の時代でした。

経営の概念すら今とはまったく違う時代だったのですね。

バブル崩壊後、90年代は肥大化していた経営を整理していく必要がありました。日本の企業は内向きの経営を強いられ、リストラクチャリングに追われているような状態でしたが、その頃には米国がむしろ復活し、ITの技術革新が起きていました。世界の動きというものに対するアンテナが非常に下がっていた時代だったと思います。97年に金融危機があり、日本経済の最もクリティカルな時期でした。

2000年以降、日本の人口は増えず、高齢化の傾向も顕著、高度成長になることはない低成長の時代において、企業がいかに自社としての発展を見出していくかという、改めてグローバル化がそこでも重要になったわけですね。その頃からM&Aというものが日本企業にも取り入れられるようになり、グローバル化とかファイナンスの手法を使ったM&Aなどが、経営のテーマになり始めた時期です。

コンサルタントとしては、そういった80年代の狂気の成長から90年代のリストラクチャリング、2000年代のグローバル化、M&Aなど、それぞれのテーマに合わせて理論を学習し、クライアント企業の方々を支援することをやってきました。

マッキンゼー&カンパニー社には20年ほどの在籍ですよね。そして、1998年から2006年までは、マッキンゼー日本支社長を務められています。

そうですね。

その後、カーライル・グループ日本の共同代表に就任されますが、そのきっかけは何だったのでしょうか。

次のステージを模索していた時に、プライベートエクイティがちょうど日本で台頭してくる時期でした。ただ、社会はもちろん、日本の経済界においても「ハゲタカ」扱いで非常に強烈な反発がありました(笑)。しかし、私は米国の発展の状況などを見ても、プライベートエクイティは、新しい企業改革の担い手であり、大きな役割を担う可能性があると思っていて、ちょうど個人的な縁もあったので、カーライル・グループ日本に移り、5年在籍しました。

5年間はどのようなご状況でしたか。リーマンショックの影響などはありましたか。

やはりリーマンショックの影響を非常に受けました。2号ファンドでしたが、その中の主力投資案件のいくつかは非常に厳しい局面を迎えました。

やはりダメージが大きかったのですね。

特に二つダメージがありましたね。一つが実態のビジネスそのものがシュリンクすること。もう一つはファイナンスが付かなくなるということです。本来は、事業から生まれてくるキャッシュで負債を返済していき、その事業を成長させていけばさらなる価値を生むのが望ましいモデルなのですが、事業から生まれるキャッシュが先細りし、返済に苦労する状況が生じました。当時は銀行も大変な時期でしたから、借り換えに応じてもらうこともできず、ファンドとしては投資と負債返済の板挟みで苦しい状況でしたね。非常に辛い時期にPEの仕事をしていました。

コンサルタントとPE、仕事の内容や会社を見るスタンスとして明らかに違いはあったのでしょうか。

コンサルタントの時は、もっぱらビジネスサイドから考えます。企業の競争力、マーケット分析、組織能力などの分析があり、その中において最も成功する戦略を考えていく活動をしていくわけです。深い分析と考察がいる仕事であることは間違いないのですが、実はあまりファイナンスの断面が入ってきません。事業と組織といった観点からの検討が中心になります。

PEはどうですか。

俄然ファイナンスと言いますか、もっと言ってしまうと「株主価値を高めていく」ことが最もボトムラインとして期待されることになります。その会社を常に財務の視点から捉えて必要なファイナンスを行い、その企業の価値を高め、最終的には高めた価値をEXITというイベントで回収をしていく。常にやはりファイナンスの視点や財務の視点から経営を見ることが中核的になっています。

もちろん事業のことを考え、組織のことを考え、リソースを手配するということは必要ですが、一番根本にあるのはいかにして価値を高めていけるのか。それは財務、ファイナンス的な視点です。これがコンサルティングとPEの非常に大きな違いになります。

ファイナンスの視点がポイントになるわけですね。

あともう一つ、立場上の違いがあります。コンサルタントはアドバイザーですので、クライアントからフィーをいただいてアドバイスを提供しています。ところが、PEは投資家ですが、企業にとってみると支配的株主、つまりオーナーになるわけです。うまくいけばもちろん価値が増加していって、リターンを創り出すこともできますが、不調になると、逆にファンド側も非常に大きい財務的な痛みを伴います。

そういう意味においては、支配的な株主という立場から、最終的な責任を引き受けて、様々な経営判断、人事などをハンズオン型で改善し、企業の価値を高めていくことが必要です。アドバイザーとは次元が大きく異なります。

 大きく違うのですね。

 コンサルティングだけだと企業経営という観点からはやはり片手落ちであったということです。プライベートエクイティを経験することによって、今申し上げた株主の視点、価値創造の視点をベースにし、戦略を立案して実行していくことができると思います。この経験というのは私にとって非常に大きかったです。

そこからアカデミックの世界に移られます。これも何かきっかけがあったのでしょうか。

ファンドが次のステージに移るタイミングでもありましたし、59歳という年齢もありましたので、これまでの経験を何らかの形で若い方々に伝えて、次の日本のビジネス人材の育成に貢献できるのは非常に有意義だと思いまして。これも縁あって、大学ビジネススクールの教員になりました。