【インタビュー】株式会社サイバーエージェント/曽山哲人氏 - 才能は、発掘するのではなく開花させる。才能開花の方程式をつくりたい。(1/5ページ) - Widge Media

【インタビュー】株式会社サイバーエージェント/曽山哲人氏 - 才能は、発掘するのではなく開花させる。才能開花の方程式をつくりたい。(1/5ページ)

記事紹介

「21世紀を代表する会社を創る」をビジョンに掲げ、AbemaTVの運営や、国内トップシェアを誇るインターネット広告事業を展開する株式会社サイバーエージェント
時流をとらえた数々のサービスと同時に、独自の強固な組織運営が注目される同社において、そのHR領域を牽引する取締役・曽山哲人氏のキャリアストーリーを伺った。
※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

曽山さんとは、これまでも何度か別の機会でご縁を頂いており、こうして改めてお話を頂けること、とても光栄です。

とんでもないです。こちらこそ、よろしくお願いします。

曽山さん、ご出身は関東ですか?

横浜ですね。

幼い頃のエピソードなどございますか。

もともとマンガ家になりたかったんです。

オイルショックの翌年、1974年生まれなんですけど、『ドラえもん』と『ドラゴンボール』がツートップで素晴らしいバイブルで。

きっかけはあったのですか?

単純に好きだったんですよね。マンガ、アニメがすごく好きで。中でもヒーローものは、特に好きでしたね。小学校の時には、イラストクラブというクラブに入って、『ドラゴンボール』の模写とかしていました。

将来の夢は「マンガ家になりたい!」みたいな感じだったのですか。

そうですね。小学校の時に、絶対藤子不二雄先生か鳥山明先生の弟子になるんだと、決めていたくらいですから(笑)。

夢に向かって、好きな漫画を描くことに夢中だったわけですね。運動系は特にされていなかったのですか?

株式会社サイバーエージェント 取締役 曽山哲人氏

運動は好きだったのですが、小児喘息があったので、あまりできなかったんです。

足が速くて、小学2年生までは、長距離走でいつも1番か2番だったんですけど、喘息でできなくなってしまって・・・・・・。中学で卓球はやっていましたが、これが精一杯でした。なので、運動ができる人に対するコンプレックスのようなものはありましたね。

中学、高校はどのように過ごしていたのでしょうか。

中学、高校は地元の公立に通っていました。中学3年生か高校に入るくらいのタイミングで、某レストランチェーンで配膳のアルバイトを始めまして。

アルバイトを始めるきっかけはあったのですか。

単純にお小遣いが欲しかっただけです(笑)。自由にできるお金を手に入れたくて。当時時給は590円でした。今から考えるとすごく安いですね。

アルバイト時代はどうでしたか。何か思い出はありますか。

とにかく面白かったですね。やっぱり人間模様が。

当時は外食チェーンが今ほど多くあるわけではなかったので、週末に家族でおめでたい日に来るといったお客さんも多く、そんなファミリーを見るのはとても楽しかったです。

怖いお客さんに「ご飯の大盛の量が足りない」と、ものすごく怒られたこととか、今でも印象に残っています(笑)。

株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之

色々な人間模様が垣間見れたわけですね。

はい。その時は、キッチンの先輩がマニュアルを無視してフォローしてくれたんですよ。そういうのは鮮明に覚えていますよね。その先輩の指示がとてもテキパキしていて、「すごくカッコイイな」と思いましたし、いろいろと先輩から教わりましたね。

アルバイトは卒業するまでされていたのですか?

いえ、実は1年くらいでした。「ストリートダンス」に出会ってしまって。

ストリートダンスですか!

中学でやっていた卓球はすごく楽しかったんですけど、当時は今と違ってまだマイナーなイメージがあったので、単純にもっとお洒落でカッコイイことがやりたいと思って。

中学3年生の頃から背が一気に伸びたので、高校で一度バレーボール部に入りました。でも全然ボールを拾えないし、ジャンプできないし……。で、3ヶ月で辞めてしまいました。

そこからストリートダンスなのですね。

はい。中学3年生の時からダンスはやっていたんですけど、中学時代の友人が、横浜から恵比寿のダンススクールに通っていて、一緒にやろうと声をかけてくれたんです。

当時ZOOというダンスボーカルユニットが深夜にテレビ番組をやっていて、ダンスのレッスンを放送していたんです。「すごいかっこいい!ここなら目立てるかも!」って思いまして(笑)。

幼い頃から、目立つことが好きだったのですね!

そうかもしれないですね!幼稚園のあゆみであったり、小学校の通知表にも、「目立ちたがり屋」とか、「落ち着きがない」とか、よく先生のコメントでも書かれていました。

ダンスはご自身に合っていたのですね。

高校2年生の時に、『元気が出るテレビ』の『ダンス甲子園』に出たんです。

ダンス甲子園、私もリアルタイムで見ていました!

僕が所属していた「D or D(Die or Dance)」というチームは、第3回大会で3位に入っているんですよ。

失礼ながら初耳でした。すごいですね!LL BROTHERSさんとか、メロリンQの山本太郎さんとか。当時の盛り上がりは鮮明に覚えています。 

すごく盛り上がっていましたよね。3位に入ったとき、僕は2年生で出場していたんです。3年の先輩たちが上手かったので、僕は下っ端でしたがラッキーでしたね。

当時の動画などはまだ残っているんですか?

YouTubeで検索すれば出てきますよ!

後ほど拝聴させて頂きます!高校時代はダンスに明け暮れていたということなのですね。

そうですね。本当にダンス漬けでした。

その後、大学進学を目指したんですが、現役で全て落ちてしまって。滑り止めと思っていたところもダメで。ある程度勉強したつもりだったんですが。

あれは初めて味わった挫折感だったかもしれないですね。そこから「二度と失敗できない」という気持ちで、朝から晩まで、お風呂と食事以外すべての時間を使って勉強しましたね。

そして上智大学へ進学されます。

はい。無事に大学へ行けました(笑)。

大学時代は何かされていたのですか?

大学時代はラクロスをやっていました。

ラクロスですか。きっかけは何かあったのですか?

たまたま勧誘されたのがきっかけですね。UCLAとかの西海岸っぽいスエットを着てる人たちが、ものすごくかっこよく見えて(笑)。

誘われた時も、喘息があると伝えたら、「ゴールキーパーっていうポジションがあるよ」と言われて。彼らからすると営業トークのひとつだと思うんですけど、自分のために考えて提案してくれたことがすごく嬉しかったんです。それで入部しました。

部活生活はいかがでしたか。

チームとしてはフィールドに10人、外に5~6人は必要なスポーツなのですが、当時は20人弱しかいなかったので、だいぶギリギリな感じでやっていましたね。今は常に80~100人くらいいる部活になっていると聞いているので、誇らしいなと思います。

雰囲気としては年次の上下関係の厳しさがなくフランクな感じで仲も良かったです。ただ勝利に向けてとか、上に(2部から1部に)上がろうとか、その為にできることをやろうとか、そういった目標意識はしっかりとありましたね。